蓮如上人御一代記聞書(書き下し文)

蓮如上人御一代記聞書 本

(1)

勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へ​まゐり​たる​に、蓮如上人仰せ​られ候ふ。道徳は​いくつ​に​なる​ぞ。道徳念仏申さ​る​べし。自力の念仏といふは、念仏おほく申し​て仏に​まゐらせ、この申し​たる功徳にて仏の​たすけ​たまは​んずる​やう​に​おもう​て​となふる​なり。

他力といふは、弥陀をたのむ一念の​おこる​とき、やがて御たすけ​に​あづかる​なり。その​のち念仏申す​は、御たすけ​あり​たる​ありがたさ​ありがたさ​と思ふ​こころ​を​よろこび​て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申す​ばかり​なり。されば他力と​は他の​ちから​といふ​こころ​なり。この一念、臨終まで​とほり​て往生する​なり​と仰せ候ふ​なり。

(2)

あさの御つとめ​に、「いつつ​の不思議を​とく​なか​に」(高僧和讃)より「尽十方の無礙光は 無明の​やみ​を​てらし​つつ 一念歓喜する​ひと​を かならず滅度に​いたら​しむ」(高僧和讃)と候ふ段の​こころ​を御法談の​とき、「光明遍照十方世界」(観経)の文の​こころ​と、また「月かげ​の​いたら​ぬ​さと​は​なけれ​ども ながむる​ひと​の​こころ​にぞ​すむ」と​ある歌を​ひきよせ御法談候ふ。

なかなか​ありがたさ申す​ばかり​なく候ふ。上様(蓮如)御立ち​の御あと​にて、北殿様(実如)の仰せ​に、夜前の御法談、今夜の御法談とを​ひきあはせ​て仰せ候ふ、ありがたさ​ありがたさ是非に​およばず​と御掟候ひ​て、御落涙の御こと、かぎり​なき御こと​に候ふ。

(3)

御つとめ​の​とき順讃御わすれ​あり。南殿へ御かへり​ありて、仰せ​に、聖人(親鸞)御すすめ​の和讃、あまりに​あまりに殊勝にて、あげば​を​わすれ​たり​と仰せ候ひ​き。ありがたき御すすめ​を信じ​て往生する​ひと​すくなし​と御述懐なり。

(4)

念声是一といふ​こと​しら​ず​と申し候ふ​とき、仰せ​に、おもひ内に​あれば​いろ外に​あらはるる​と​あり。されば信を​え​たる体は​すなはち南無阿弥陀仏なり​とこころうれ​ば、口も心も​ひとつ​なり。

(5)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。本尊は掛け​やぶれ、聖教は​よみ​やぶれ​と、対句に仰せ​られ候ふ。

(6)

仰せ​に、南無といふは帰命なり、帰命といふは弥陀を一念たのみ​まゐらする​こころ​なり。また発願回向といふは、たのむ機に​やがて大善大功徳を​あたへ​たまふ​なり。その体すなはち南無阿弥陀仏なり​と仰せ候ひ​き。

(7)

加賀の願生と覚善又四郎と​に対し​て、信心といふは弥陀を一念御たすけ候へ​と​たのむ​とき、やがて御たすけ​ある​すがた​を南無阿弥陀仏と申す​なり。総じて罪は​いかほど​ある​とも、一念の信力にて消し​うしなひ​たまふ​なり。

されば「無始以来輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の妙願力に​ほろぼさ​れ​て、涅槃畢竟の真因はじめて​きざす​ところ​を​さす​なり」(真要鈔・本)といふ御ことば​を引き​たまひ​て仰せ候ひ​き。されば​この​こころ​を御かけ字にあそばさ​れ​て、願生に​くださ​れ​けり。

(8)

三河の教賢、伊勢の空賢と​に対し​て、仰せに、南無といふは帰命、この​こころ​は御たすけ候へ​と​たのむ​なり。この帰命の​こころやがて発願回向のこころ​を感ずる​なり​と仰せ​られ候ふ​なり。

(9)

「他力の願行を​ひさしく身に​たもち​ながら、よしなき自力の執心に​ほださ​れ​て、むなしく流転し​ける​なり」(安心決定鈔・末意)と候ふ​を、え存ぜ​ず候ふ​よし申しあげ候ふ​ところ​に、仰せ​に、ききわけ​て​え信ぜ​ぬ​もの​の​こと​なり​と仰せ​られ候ひ​き。

(10)

「弥陀の大悲、かの常没の衆生の​むね​の​うち​に​みち​みち​たる」(安心決定鈔・本意)といへる​こと不審に候ふ​と、福田寺申しあげ​られ候ふ。仰せ​に、仏心の蓮華はむね​に​こそ​ひらく​べけれ、はら​に​ある​べき​や。「弥陀の身心の功徳、法界衆生の身の​うち、こころ​の​そこ​に入り​みつ」(安心決定鈔・本)とも​あり。しかれば、ただ領解の心中を​さし​て​の​こと​なり​と仰せ候ひ​き。ありがたき​よし候ふ​なり。

(11)

十月二十八日の逮夜に​のたまはく、「正信偈和讃」を​よみ​て、仏にも聖人(親鸞)にもまゐらせ​ん​と​おもふ​か、あさまし​や。他宗には​つとめ​をも​して回向する​なり。御一流には他力信心を​よく​しれ​と​おぼしめし​て、聖人の和讃に​その​こころ​を​あそばさ​れ​たり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈の​こころ​を、和讃にききつくる​やう​に​あそばさ​れ​て、その恩を​よくよく存知し​て、あら​たふと​や​と念仏する​は、仏恩の御こと​を聖人の御前にて​よろこび​まうす​こころ​なり​と、くれぐれ仰せ​られ候ひ​き。

(12)

聖教を​よく​おぼえ​たり​とも、他力の安心をしかと決定なく​は​いたづらごと​なり。弥陀を​たのむ​ところ​にて往生決定と信じ​て、ふたごころなく臨終まで​とほり候は​ば往生す​べき​なり。

(13)

明応三年十一月、報恩講の二十四日あかつき八時において、聖人の御前に参拝申し​て候ふ​に、すこし​ねぶり候ふ​うち​に、ゆめ​とも​うつつ​とも​わか​ず、空善拝み​まうし候ふ​やう​は、御厨子の​うしろ​より​わた​を​つみひろげ​たる​やう​なる​うち​より、上様(蓮如)あらはれ御出で​ある​と拝み​まうす​ところ​に、御相好、開山聖人(親鸞)にて​ぞ​おはします。あら不思議や​と​おもひ、やがて御厨子の​うち​を拝み​まうせ​ば、聖人御座なし。

さては開山聖人、上様に現じ​ましまし​て、御一流を御再興にて御座候ふと申しいだす​べき​と存ずる​ところ​に、慶聞坊の讃嘆に、聖人の御流義、「たとへば木石の縁を​まち​て火を生じ、瓦礫のを​すり​て玉を​なす​が​ごとし」と、御式(報恩講私記)の​うへ​を讃嘆ある​と​おぼえ​て夢さめ​て候ふ。さては開山聖人の御再誕と、それ​より信仰申す​こと​に候ひ​き。

(14)

教化する​ひと、まづ信心を​よく決定し​て、その​うへ​にて聖教を​よみ​かたら​ば、きく​ひと​も信を​とる​べし。

(15)

仰せ​に、弥陀を​たのみ​て御たすけ​を決定して、御たすけ​の​ありがたさ​よ​とよろこぶ​こころ​あれば、その​うれしさ​に念仏申す​ばかり​なり。すなはち仏恩報謝なり。

(16)

大津近松殿に対し​ましまし​て仰せ​られ候ふ。信心を​よく決定し​て、ひと​にも​とら​せよ​と仰せ​られ候ひ​き。

(17)

十二月六日に富田殿へ御下向にて候ふ​あひだ、五日の夜は大勢御前へ​まゐり候ふ​に、仰せ​に、今夜は​なにごと​に人おほく​きたり​たる​ぞ​と。順誓申さ​れ候ふ​は、まことに​この​あひだ​の御聴聞申し、ありがたさ​の御礼の​ため、また明日御下向にて御座候ふ。御目に​かかり​まうす​べし​か​の​あひだ、歳末の御礼の​ため​ならん​と申しあげ​られ​けり。その​とき仰せ​に、無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心を​とり​て礼に​せよ​と仰せ候ひ​き。

(18)

仰せ​に、ときどき懈怠する​こと​ある​とき、往生す​まじき​か​と疑ひ​なげく​もの​ある​べし。しかれども、もはや弥陀如来を​ひとたび​たのみ​まゐらせ​て往生決定の​のち​なれば、懈怠おほく​なる​こと​の​あさまし​や。かかる懈怠おほく​なる​もの​なれども、御たすけ​は治定なり。ありがた​や​ありがた​や​と​よろこぶ​こころ​を、他力大行の催促なり​と申す​と仰せ​られ候ふ​なり。

(19)

御たすけ​あり​たる​こと​の​ありがたさ​よ​と念仏申す​べく候ふ​や、また御たすけ​あら​うずる​こと​の​ありがたさ​よ​と念仏申す​べく候ふ​や​と、申しあげ候ふ​とき、仰せ​に、いづれ​も​よし。ただし正定聚の​かた​は御たすけ​あり​たる​と​よろこぶ​こころ、滅度の​さとり​の​かた​は御たすけ​あら​うずる​こと​の​ありがたさ​よ​と申す​こころ​なり。いづれ​も仏に成る​こと​を​よろこぶ​こころ、よし​と仰せ候ふ​なり。

(20)

明応五年正月二十三日に富田殿より御上洛ありて、仰せ​に、当年より​いよいよ信心なき​ひと​には御あひ​ある​まじき​と、かたく仰せ候ふ​なり。安心の​とほり​いよいよ仰せ​きか​せ​られ​て、また誓願寺に能を​させ​られ​けり。

二月十七日に​やがて富田殿へ御下向ありて、三月二十七日に堺殿より御上洛ありて、二十八日に仰せ​られ候ふ。「自信教人信」(礼讃)の​こころ​を仰せ​きか​せ​られ​んがために、上り下り辛労なれども、御出で​ある​ところ​は、信を​とり​よろこぶ​よし申す​ほどに、うれしく​て​また​のぼり​たり​と仰せ​られ候ひ​き。

(21)

四月九日に仰せ​られ候ふ。安心を​とり​て​もの​を​いは​ば​よし。用ない​こと​をば​いふ​まじき​なり。一心の​ところ​をば​よく人にも​いへ​と、空善に御掟なり。

(22)

同じき十二日に堺殿へ御下向あり。

(23)

七月二十日御上洛にて、その日仰せ​られ候ふ。「五濁悪世の​われら​こそ 金剛の信心ばかり​にて ながく生死を​すてはて​て 自然の浄土に​いたる​なれ」(高僧和讃)。この​つぎ​をも御法談ありて、この二首の讃の​こころ​を​いひ​て​きか​せん​とて​のぼり​たり​と仰せ候ふ​なり。さて「自然の浄土に​いたる​なり」、「ながく生死を​へだて​ける」、さてさて​あらおもしろ​や​おもしろ​や​と、くれぐれ御掟あり​けり。

(24)

のたまはく、「南旡」の字は聖人(親鸞)の御流義に​かぎり​て​あそばし​けり。「南旡阿弥陀仏」を泥にて写さ​せ​られ​て、御座敷に掛け​させ​られ​て仰せ​られ​ける​は、不可思議光仏、無礙光仏も​この南無阿弥陀仏を​ほめ​たまふ徳号なり。しかれば南無阿弥陀仏を本と​す​べし​と仰せ​られ候ふ​なり。

(25)

「十方無量の諸仏の 証誠護念の​みこと​にて 自力の大菩提心の かなは​ぬ​ほど​は​しり​ぬ​べし」(正像末和讃)。御讃の​こころ​を聴聞申し​たき​と順誓申しあげ​られけり。仰せ​に、諸仏の弥陀に帰せ​らるる​を能と​し​たまへ​り。
「世の​なか​にあま​の​こころ​を​すて​よ​かし 妻うし​の​つの​は​さも​あらば​あれ」と。これ​は御開山(親鸞)の御歌なり。されば​かたち​は​いら​ぬ​こと、一心を本と​す​べし​と​なり。世にも「かうべ​を​そる​と​いへども心を​そら​ず」といふ​こと​が​ある​と仰せ​られ候ふ。

(26)

「鳥部野を​おもひやる​こそ​あはれなれ ゆかり​の人の​あと​と​おもへ​ば」。これ​も聖人の御歌なり。

(27)

明応五年九月二十日、御開山(親鸞)の御影様、空善に御免あり。なかなか​ありがたさ申す​に​かぎり​なき​こと​なり。

(28)

同じき十一月報恩講の二十五日に、御開山の御伝(御伝鈔)を聖人(親鸞)の御前にて上様(蓮如)あそばさ​れ​て、いろいろ御法談候ふ。なかなか​ありがたさ申す​ばかり​なく候ふ。

(29)

明応六年四月十六日御上洛にて、その日御開山聖人の御影の正本、あつがみ一枚に​つつま​せ、みづから​の御筆にて御座候ふ​とて、上様御手に御ひろげ候ひ​て、皆に拝ま​せ​たまへ​り。この正本、まことに宿善なく​ては拝見申さ​ぬ​こと​なり​と仰せ​られ候ふ。

(30)

のたまはく、「諸仏三業荘厳し​て 畢竟平等なる​こと​は 衆生虚誑の身口意を 治せ​んがため​と​のべ​たまふ」(高僧和讃)といふは、諸仏の弥陀に帰し​て衆生を​たすけ​らるる​こと​よ​と仰せ​られ候ふ。

(31)

一念の信心を​え​て​のち​の相続といふは、さらに別の​こと​に​あらず、はじめ発起する​ところの安心を相続せ​られ​て​たふとく​なる一念の​こころ​の​とほる​を、「憶念の心つね​に」とも「仏恩報謝」とも​いふ​なり。いよいよ帰命の一念、発起する​こと肝要なり​と仰せ候ふ​なり。

(32)

のたまはく、朝夕、「正信偈和讃」にて念仏申す​は、往生のたねに​なる​べき​か​なる​まじき​か​と、おのおの坊主に御たづね​あり。皆申さ​れ​ける​は、往生の​たね​に​なる​べし​と申し​たる人も​あり、往生の​たね​には​なる​まじき​と​いふ人も​あり​ける​とき、仰せ​に、いづれ​も​わろし、「正信偈和讃」は、衆生の弥陀如来を一念に​たのみ​まゐらせ​て、後生たすかり​まうせ​と​の​ことわり​を​あそばさ​れ​たり。よく​ききわけ​て信を​とり​て、ありがた​や​ありがた​や​と聖人(親鸞)の御前にて​よろこぶ​こと​なり​と、くれぐれ仰せ候ふ​なり。

(33)

南無阿弥陀仏の六字を、他宗には大善大功徳にて​ある​あひだ、となへ​て​この功徳を諸仏・菩薩・諸天に​まゐらせ​て、その功徳を​わがものがほ​に​する​なり。一流には​さ​なし。この六字の名号わが​もの​にて​ありて​こそ、となへ​て仏・菩薩に​まゐらす​べけれ。一念一心に後生たすけ​たまへ​と​たのめ​ば、やがて御たすけ​に​あづかる​こと​の​ありがたさ​ありがたさ​と申す​ばかり​なり​と仰せ候ふ​なり。

(34)

三河国浅井の後室、御いとまごひ​に​とて​まゐり候ふ​に、富田殿へ御下向のあした​の​こと​なれば、ことのほか​の御取りみだし​にて御座候ふ​に、仰せ​に、名号を​ただ​となへ​て仏に​まゐらする​こころ​にて​は​ゆめゆめ​なし。弥陀を​しかと御たすけ候へ​とたのみ​まゐらすれ​ば、やがて仏の御たすけ​に​あづかる​を南無阿弥陀仏と申す​なり。しかれば、御たすけ​に​あづかり​たる​こと​の​ありがたさ​よ​ありがたさ​よ​と、こころ​に​おもひ​まゐらする​を、口に出し​て南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申す​を、仏恩を報ずる​と​は申す​こと​なり​と仰せ候ひ​き。

(35)

順誓申しあげ​られ候ふ。一念発起のところ​にて、罪みな消滅し​て正定聚不退の位に定まる​と、御文に​あそばさ​れ​たり。しかるに罪は​いのち​の​ある​あひだ、罪も​ある​べし​と仰せ候ふ。御文と別に​きこえ​まうし候ふ​や​と、申しあげ候ふ​とき、仰せ​に、一念の​ところ​にて罪みな消え​て​と​ある​は、一念の信力にて往生定まる​とき​は、罪は​さはり​とも​なら​ず、されば無き分なり。命の娑婆に​あら​ん​かぎり​は、罪は尽き​ざる​なり。順誓は、はや悟り​て罪は​なき​か​や。

聖教には「一念の​ところ​にて罪消え​て」と​ある​なり​と仰せ​られ候ふ。罪の​ある​なし​の沙汰を​せん​より​は、信心を取り​たる​か取ら​ざる​か​の沙汰を​いくたび​も​いくたび​も​よし。罪消え​て御たすけ​あら​ん​とも、罪消え​ず​して御たすけ​ある​べし​とも、弥陀の御はからひ​なり、われ​として​はからふ​べから​ず。ただ信心肝要なり​と、くれぐれ仰せ​られ候ふ​なり。

(36)

「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向と​なづけ​て​ぞ 自力の称念きらは​るる」(正像末和讃)といふは、弥陀の​かた​より、たのむ​こころ​も、たふと​や​ありがた​や​と念仏申す​こころ​も、みな​あたへ​たまふ​ゆゑに、と​や​せん​かく​や​せん​と​はからう​て念仏申す​は、自力なれば​きらふ​なり​と仰せ候ふ​なり。

(37)

無生の生と​は、極楽の生は三界を​へめぐる​こころ​にて​あらざれ​ば、極楽の生は無生の生と​いふ​なり。

(38)

回向といふは、弥陀如来の、衆生を御たすけ​を​いふ​なり​と仰せ​られ候ふ​なり。

(39)

仰せ​に、一念発起の義、往生は決定なり。罪消し​て助け​たまは​ん​とも、罪消さ​ず​して​たすけ​たまは​ん​とも、弥陀如来の御はからひ​なり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけ​たまふ​こと​なり​と仰せ​られ候ふ​なり。

(40)

仰せ​に、身を​すて​ておのおの​と同座する​をば、聖人(親鸞)の仰せ​にも、四海の信心の人は​みな兄弟と仰せ​られ​たれ​ば、われ​も​その御ことば​の​ごとくなり。また同座をも​して​あらば、不審なる​こと​をも問へ​かし、信を​よく​とれ​かし​と​ねがふ​ばかり​なり​と仰せ​られ候ふ​なり。

(41)

「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入る​こと​を喜ば​ず、真証の証に近づく​こと​を快しま​ず」(信巻・末)と申す沙汰に、不審の​あつかひ​ども​にて、往生せ​んずる​か、す​まじき​なんど​と​たがひに申し​あひ​ける​を、ものごし​に​きこしめさ​れ​て、愛欲も名利も​みな煩悩なり、されば機の​あつかひ​を​する​は雑修なり​と仰せ候ふ​なり。ただ信ずる​ほか​は別の​こと​なし​と仰せ​られ候ふ。

(42)

ゆふさり、案内をも申さ​ず、ひとびと​おほく​まゐり​たる​を、美濃殿、まかりいで候へ​と、あらあら​と御申し​の​ところ​に、仰せ​に、さやうに​いは​ん​ことば​にて、一念​の​こと​を​いひ​て​きか​せ​て帰せ​かし​と。東西を走りまはり​て​いひ​たき​こと​なり​と仰せ​られ候ふ​とき、慶聞房涙を流し、あやまり​て候ふ​とて讃嘆あり​けり。皆々落涙申す​こと​かぎり​なかり​けり。

(43)

明応六年十一月、報恩講に御上洛なく候ふ​あひだ、法敬坊御使ひ​として、当年は御在国にて御座候ふ​あひだ、御講を​なにと御沙汰ある​べき​や​と、たづね御申し候ふ​に、当年より​は夕の六つどき、朝の六つどき​を​かぎり​に、みな退散ある​べし​と​の御文を​つくら​せ​て、かくのごとく​めさ​る​べき​よし御掟あり。御堂の夜の宿衆も​その日の頭人ばかり​と御掟なり。また上様(蓮如)は七日の御講の​うち​を富田殿にて三日御つとめ​ありて、二十四日には大坂殿へ御下向にて御勤行なり。

(44)

おなじき七年の夏より​また御違例にて御座候ふ​あひだ、五月七日に御いとまごひ​に聖人へ御まゐり​あり​たき​と仰せ​られ​て、御上洛にて、やがて仰せ​に、信心なき​ひと​には​あふ​まじき​ぞ。信を​うる​もの​には召し​ても​み​たく候ふ、逢ふ​べし​と仰せ​なり​と云々。

(45)

今の人は古を​たづぬ​べし。また古き人は古を​よく​つたふ​べし。物語は失する​ものなり。書し​たる​もの​は失せ​ず候ふ。

(46)

赤尾の道宗申さ​れ候ふ。一日のたしなみ​には朝つとめ​に​かかさ​じ​と​たしなむべし。一月の​たしなみ​には​ちかき​ところ御開山様(親鸞)の御座候ふ​ところ​へ​まゐる​べし​と​たしなめ、一年の​たしなみ​には御本寺へ​まゐる​べし​と​たしなむ​べし​と云々。これ​を円如様きこしめし​およば​れ、よく申し​たる​と仰せ​られ候ふ。

(47)

わが心に​まかせ​ず​して心を責め​よ。仏法は心の​つまる物か​と​おもへ​ば、信心に御なぐさみ候ふ​と仰せ​られ候ふ。

(48)

法敬坊九十まで存命候ふ。この歳まで聴聞申し候へ​ども、これ​まで​と存知たる​こと​なし、あき​たり​も​なき​こと​なり​と申さ​れ候ふ。

(49)

山科にて御法談の御座候ふ​とき、あまりに​ありがたき御掟ども​なり​とて、これ​を忘れ​まうし​ては​と存じ、御座敷を​たち御堂へ六人より​て談合候へ​ば、面々に​きき​かへ​られ候ふ。その​うち​に四人は​ちがひ候ふ。大事の​こと​にて候ふ​と申す​こと​なり。聞き​まどひ​ある​ものなり。

(50)

蓮如上人の御時、こころざし​の衆も御前に​おほく候ふ​とき、この​うち​に信を​え​たる​もの​いくたり​ある​べき​ぞ、一人か二人か​ある​べき​か、など御掟候ふ​とき、おのおの肝を​つぶし候ふ​と申さ​れ候ふ​よし​に候ふ。

(51)

法敬申さ​れ候ふ。讃嘆の​とき​なに​も​おなじ​やう​に​きか​で、聴聞はかど​を​きけ​と申さ​れ候ふ。詮ある​ところ​を​きけ​と​なり。

(52)

「憶念称名いさみ​ありて」(報恩講私記)と​は、称名はいさみの念仏なり。信の​うへ​は​うれしく​いさみ​て申す念仏なり。

(53)

御文の​こと、聖教は読み​ちがへ​も​あり、こころえ​も​ゆか​ぬ​ところ​も​あり。御文は読み​ちがへ​も​ある​まじき​と仰せ​られ候ふ。御慈悲の​きはまり​なり。これ​を​きき​ながら​こころえ​の​ゆか​ぬ​は無宿善の機なり。

(54)

御一流の御こと、この​とし​まで聴聞申し候う​て、御ことば​を​うけたまはり候へ​ども、ただ心が御ことば​の​ごとくなら​ず​と、法敬申さ​れ候ふ。

(55)

実如上人、さいさい仰せ​られ候ふ。仏法の​こと、わが​こころ​に​まかせ​ず​たしなめ​と御掟なり。こころ​に​まかせ​ては、さてなり。すなはち​こころ​に​まかせ​ず​たしなむ心は他力なり。

(56)

御一流の義を承り​わけ​たる​ひと​は​あれども、聞き​う​る人は​まれ​なり​といへり。信を​うる機まれなり​といへる意なり。

(57)

蓮如上人の御掟には、仏法の​こと​を​いふ​に、世間の​こと​にとりなす人のみ​なり。それを退屈せず​して、また仏法の​こと​に​とりなせ​と仰せ​られ候ふ​なり。

(58)

たれ​の​ともがら​も、われ​は​わろき​と​おもふ​もの、一人として​も​ある​べから​ず。これしかしながら、聖人(親鸞)の御罰を​かうぶり​たる​すがた​なり。これ​によりて一人づつ​も心中を​ひるがへさ​ずは、ながき世は泥梨に​ふかく沈むべき​もの​なり。これ​と​いふ​も​なにごと​ぞ​なれば、真実に仏法の​そこ​を​しら​ざる​ゆゑなり。

(59)

「皆ひと​の​まこと​の信は​さらに​なし ものしりがほ​の風情にて​こそ」。近松殿の堺へ御下向の​とき、なげし​におし​て​おか​せ​られ候ふ。あと​にて​この​こころ​を​おもひ​いだし候へ​と御掟なり。光応寺殿の御不審なり。「ものしりがほ」と​は、われ​は​こころえ​たり​と​おもふ​が​この​こころ​なり。

(60)

法敬坊、安心の​とほり​ばかり讃嘆する​ひと​なり。「言南無者」(玄義分)の釈をば、いつ​も​はづさ​ず引く人なり。それ​さへ、さしよせ​て申せ​と、蓮如上人御掟候ふ​なり。ことば​すくな​に安心の​とほり申せ​と御掟なり。

(61)

善宗申さ​れ候ふ。こころざし申し候ふ​とき、わがものがほ​に​もち​て​まゐる​は​はづかしき​よし申さ​れ候ふ。なにと​し​たる​こと​にて候ふ​や​と申し候へ​ば、これ​は​みな御用の​もの​にて​ある​を、わが​もの​の​やう​に​もち​て​まゐる​と申さ​れ候ふ。ただ上様(蓮如)の​もの、とりつぎ候ふ​こと​にて候ふ​を、わがものがほ​に存ずる​か​と申さ​れ候ふ。

(62)

津国郡家の主計と申す人あり。ひまなく念仏申す​あひだ、ひげ​を剃る​とき切ら​ぬ​こと​なし。わすれ​て念仏申す​なり。人は口はたらか​ねば念仏も​すこし​の​あひだ​も申さ​れ​ぬ​か​と、こころもとなき​よし​に候ふ。

(63)

仏法者申さ​れ候ふ。わかき​とき仏法は​たしなめ​と候ふ。としよれ​ば行歩も​かなは​ず、ねぶたく​も​ある​なり。ただ​わかき​とき​たしなめ​と候ふ。

(64)

衆生を​しつらひ​たまふ。「しつらふ」といふは、衆生の​こころ​を​その​まま​おき​て、よき​こころ​を御くはへ候ひ​て、よく​めさ​れ候ふ。衆生の​こころ​を​みな​とりかへ​て、仏智ばかり​にて、別に御みたて候ふ​こと​にて​は​なく候ふ。

(65)

わが妻子ほど不便なる​こと​なし。それ​を勧化せ​ぬ​は​あさましき​こと​なり。宿善なく​は​ちから​なし。わが身を​ひとつ勧化せ​ぬ​もの​が​ある​べき​か。

(66)

慶聞坊の​いは​れ候ふ。信は​なく​てまぎれまはる​と、日に日に地獄が​ちかく​なる。まぎれまはる​が​あらはれ​ば地獄が​ちかく​なる​なり。うちみ​は信不信みえ​ず候ふ。とほく​いのち​を​もた​ず​して、今日ばかり​と思へ​と、古きこころざし​の​ひと申さ​れ候ふ。

(67)

一度のちかひ​が一期の​ちかひ​なり。一度の​たしなみ​が一期の​たしなみ​なり。その​ゆゑは、その​まま​いのち​をはれ​ば一期の​ちかひ​に​なる​によりて​なり。

(68)

「今日ばかり​おもふ​こころ​を忘る​な​よ さなき​は​いとど​のぞみ​おほき​に」覚如様御歌

(69)

他流には、名号より​は絵像、絵像より​は木像と​いふ​なり。当流には、木像より​は絵像、絵像より​は名号と​いふ​なり。

(70)

御本寺北殿にて、法敬坊に対し​て蓮如上人仰せ​られ候ふ。われ​は​なにごと​をも当機を​かがみ​おぼしめし、十ある​もの​を一つ​に​する​やう​に、かろがろと理の​やがて叶ふ​やう​に御沙汰候ふ。これ​を人が考へ​ぬ​と仰せ​られ候ふ。御文等をも近年は御ことば​すくな​に​あそばさ​れ候ふ。いま​は​もの​を聞く​うち​にも退屈し、物を聞き​おとす​あひだ、肝要の​こと​を​やがて​しり候ふ​やう​に​あそばさ​れ候ふ​の​よし仰せ​られ候ふ。

(71)

法印兼縁、幼少の時、二俣にて​あまた小名号を申し入れ候ふ時、信心や​ある、おのおの​と仰せ​られ候ふ。信心はその体名号にて候ふ。いま思ひ​あはせ候ふ​と​の義に候ふ。

(72)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。堺の日向屋は三十万貫を持ち​たれ​ども、死に​たる​が仏には成り候ふ​まじ。大和の了妙は帷一つ​をも着かね候へ​ども、このたび仏に成る​べき​よ​と、仰せ​られ候ふ​よし​に候ふ。

(73)  

蓮如上人へ久宝寺の法性申さ​れ候ふは、一念に後生御たすけ候へ​と弥陀を​たのみ​たてまつり候ふ​ばかり​にて往生一定と存じ候ふ。かやうに​て御入り候ふ​か​と申さ​れ候へ​ば、ある人わき​より、それ​は​いつ​も​の​こと​にて候ふ。別の​こと、不審なる​こと​など申さ​れ候は​で​と申さ​れ候へ​ば、蓮如上人仰せ​られ候ふ。それ​ぞ​とよ、わろき​と​は。めづらしき​こと​を聞き​たく​おもひ​しり​たく思ふ​なり。信の​うへ​にて​は​いくたび​も心中の​おもむき、かやうに申さ​る​べき​こと​なる​よし仰せ​られ候ふ。

(74)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。一向に不信の​よし申さる​る人は​よく候ふ。ことば​にて安心の​とほり申し候ひ​て、口には​おなじ​ごとくに​て、まぎれ​て空しく​なる​べき人を悲しく覚え候ふ​よし仰せ​られ候ふ​なり。

(75)

聖人(親鸞)の御一流は阿弥陀如来の御掟なり。されば御文には「阿弥陀如来の仰せ​られ​ける​やう​は」と​あそばさ​れ候ふ。

(76)  

蓮如上人、法敬に対せ​られ仰せ​られ候ふ。いま​この弥陀を​たのめ​といふ​こと​を御教へ候ふ人を​しり​たる​か​と仰せ​られ候ふ。順誓、存ぜ​ず​と申さ​れ候ふ。いま御をしへ候ふ人を​いふ​べし。鍛冶・番匠など​も物を​をしふる​に物を出す​ものなり。一大事の​こと​なり。なんぞ​もの​を​まゐらせ​よ。いふ​べき​と仰せ​られ候ふ時、順誓、なかなかなにたる​もの​なり​とも進上いたす​べき​と申さ​れ候ふ。蓮如上人仰せ​られ候ふ。この​こと​を​をしふる人は阿弥陀如来にて候ふ。阿弥陀如来の​われ​を​たのめ​と​の御をしへ​にて候ふ​よし仰せ​られ候ふ。

(77)

法敬坊、蓮如上人へ申さ​れ候ふ。あそばさ​れ候ふ御名号焼け​まうし候ふ​が、六体の仏に​なり​まうし候ふ。不思議なる​こと​と申さ​れ候へ​ば、前々住上人(蓮如)その​とき仰せ​られ候ふ。それ​は不思議にて​も​なき​なり。仏の仏に御成り候ふ​は不思議にて​も​なく候ふ。悪凡夫の弥陀を​たのむ一念にて仏に成る​こそ不思議よ​と仰せ​られ候ふ​なり。

(78)

朝夕は如来・聖人(親鸞)の御用にて候ふ​あひだ、冥加の​かた​を​ふかく存ず​べき​よし、折々前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ​よし​に候ふ。

(79)

前々住上人仰せ​られ候ふ。「噛むと​は​しる​とも、呑む​と​しら​す​な」といふ​こと​が​ある​ぞ。妻子を帯し魚鳥を服し、罪障の身なり​と​いひ​て、さのみ思ひ​の​まま​には​ある​まじき​よし仰せ​られ候ふ。

(80)

仏法には無我と仰せ​られ候ふ。われ​と思ふ​こと​は​いささか​ある​まじき​こと​なり。われ​は​わろし​と​おもふ人なし。これ聖人(親鸞)の御罰なり​と、御詞候ふ。他力の御すすめ​にて候ふ。ゆめゆめ​われ​といふ​こと​は​あるまじく候ふ。無我といふ​こと、前住上人(実如)も​たびたび仰せ​られ候ふ。

(81)

「日ごろ​しれ​る​ところ​を善知識に​あひ​て問へ​ば徳分ある​なり」(浄土見聞集・意)。しれ​る​ところ​を問へ​ば徳分ある​といへる​が殊勝の​ことば​なり​と、蓮如上人仰せ​られ候ふ。知ら​ざる​ところ​を問は​ば​いかほど殊勝なる​こと​ある​べき​と仰せ​られ候ふ。

(82)

聴聞を申す​も大略わが​ため​と​は​おもはず、ややもすれば法文の一つ​をも​ききおぼえ​て、人にうりごころ​ある​と​の仰せ​ごと​にて候ふ。

(83)  

一心に​たのみ​たてまつる機は、如来の​よく​しろしめす​なり。弥陀の​ただ​しろしめす​やう​に心中を​もつ​べし。冥加をおそろしく存ず​べき​こと​にて候ふ​と​の義に候ふ。

(84)

前住上人(実如)仰せ​られ候ふ。前々住(蓮如)より御相続の義は別義なき​なり。ただ弥陀たのむ一念の義より​ほか​は別義なく候ふ。これ​より​ほか御存知なく候ふ。いかやう​の御誓言も​ある​べき​よし仰せ​られ候ふ。

(85)

おなじく仰せ​られ候ふ。凡夫往生、ただ​たのむ一念にて仏に成ら​ぬ​こと​あらば、いかなる御誓言をも仰せ​らる​べき。証拠は南無阿弥陀仏なり。十方の諸仏、証人にて候ふ。

(86)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。物を​いへ​いへ​と仰せ​られ候ふ。物を申さ​ぬ​もの​は​おそろしき​と仰せ​られ候ふ。信不信ともに、ただ物を​いへ​と仰せ​られ候ふ。物を申せ​ば心底も​きこえ、また人にも直さ​るる​なり。ただ物を申せ​と仰せ​られ候ふ。

(87)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。仏法は、つとめ​の節はかせ​も​しら​で​よく​する​と思ふ​なり。つとめ​の節わろき​よし​を仰せ​られ、慶聞坊を​いつ​もとりつめ仰せ​られ​つる​よし​に候ふ。それ​につきて蓮如上人仰せ​られ候ふ。一向に​わろき人は違ひ​など​といふ​こと​も​なし。ただ​わろき​まで​なり。わろし​とも仰せ​ごと​も​なき​なり。法義をも​こころ​に​かけ、ちと​こころえ​も​ある​うへ​の違ひ​が、ことのほか​の違ひ​なり​と仰せ​られ候ふ​よし​に候ふ。

(88)

人の​こころえ​の​とほり申さ​れ​ける​に、わが​こころ​は​ただ篭に水を入れ候ふ​やう​に、仏法の御座敷にて​は​ありがたく​も​たふとく​も存じ候ふ​が、やがて​もと​の心中に​なさ​れ候ふ​と、申さ​れ候ふ​ところ​に、前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。その篭を水に​つけ​よ、わが身をば法にひて​て​おく​べき​よし仰せ​られ候ふ​よし​に候ふ。
万事信なき​によりて​わろき​なり。善知識の​わろき​と仰せ​らるる​は、信の​なき​こと​をくせごと​と仰せ​られ候ふ​こと​に候ふ。

(89)

聖教を拝見申す​も、うかうか​と拝み​まうす​は​その詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれ​くれ​と仰せ​られ候ふ。また百遍これ​を​みれ​ば義理おのづから得る​と申す​こと​も​あれば、心を​とどむ​べき​こと​なり。聖教は句面の​ごとく​こころう​べし。その​うへ​にて師伝口業は​ある​べき​なり。私にして会釈する​こと​しかるべから​ざる​こと​なり。

(90)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。他力信心他力信心と​みれ​ば、あやまり​なき​よし仰せ​られ候ふ。

(91)

われ​ばかり​と思ひ、独覚心なる​こと、あさましき​こと​なり。信あらば仏の慈悲を​うけとり​まうす​うへは、われ​ばかり​と思ふ​こと​は​ある​まじく候ふ。触光柔軟の願(第三十三願)候ふ​とき​は、心も​やはらぐ​べき​こと​なり。されば縁覚は独覚の​さとり​なる​がゆゑに、仏に成ら​ざる​なり。

(92)

一句一言も申す​もの​は、われと思ひ​て物を申す​なり。信の​うへ​は​われ​は​わろし​と思ひ、また報謝と思ひ、ありがたさ​のあまり​を人にも申す​こと​なる​べし。

(93)

信も​なく​て、人に信を​とら​れ​よ​とら​れ​よ​と申す​は、われ​は物を​もた​ず​して人に物を​とら​す​べき​といふ​の心なり。人、承引ある​べから​ず​と、前住上人(蓮如)申さ​る​と順誓に仰せ​られ候ひ​き。「自信教人信」(礼讃)と候ふ時は、まづ​わが信心決定し​て、人にも教へ​て仏恩に​なる​と​の​こと​に候ふ。自身の安心決定し​て教ふる​は、すなはち「大悲伝普化」(礼讃)の道理なる​よし、おなじく仰せ​られ候ふ。

(94)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。聖教よみ​の聖教よま​ず​あり、聖教よま​ず​の聖教よみ​あり。一文字をも​しら​ね​ども、人に聖教を​よま​せ聴聞させ​て信を​とら​する​は、聖教よま​ず​の聖教よみ​なり。聖教をば​よめ​ども、真実に​よみ​も​せず法義も​なき​は、聖教よみ​の聖教よま​ず​なり​と仰せ​られ候ふ。

  自信教人信の道理なり​と仰せ​られ候ふ​こと。

(95)

聖教よみ​の、仏法を申し​たて​たる​こと​は​なく候ふ。尼入道の​たぐひ​の​たふと​や​ありがた​や​と申さ​れ候ふ​を​きき​ては、人が信を​とる​と、前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ​よし​に候ふ。なに​も​しら​ね​ども、仏の加備力の​ゆゑに尼入道など​の​よろこば​るる​を​きき​ては、人も信を​とる​なり。聖教を​よめ​ども、名聞が​さき​に​たち​て心には法なき​ゆゑに、人の信用なき​なり。

(96)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。当流には、総体、世間機わろし。仏法の​うへ​より​なにごと​も​あひ​はたらく​べき​こと​なる​よし仰せ​られ候ふ​と云々。

(97)

おなじく仰せ​られ候ふ。世間にて、時宜しかるべき​は​よき人なり​と​いへども、信なく​は心を​おく​べき​なり。便り​にも​なら​ぬ​なり。たとひ片目つぶれ、腰を​ひき候ふ​やう​なる​もの​なり​とも、信心あら​ん人をば​たのもしく思ふ​べき​なり​と仰せ​られ候ふ。

(98)

君を思ふ​は​われ​を思ふ​なり。善知識の仰せ​に随ひ信を​とれ​ば、極楽へ​まゐる​ものなり。

(99)

久遠劫より久しき仏は阿弥陀仏なり。仮に果後の方便によりて誓願を​まうけ​たまふ​こと​なり。

(100)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。弥陀を​たのめる人は、南無阿弥陀仏に身をば​まるめ​たる​こと​なり​と仰せ​られ候ふ​と云々。いよいよ冥加を存ず​べき​の​よし​に候ふ。

(101)

丹後法眼 蓮応 衣装ととのへ​られ、前々住上人の御前に伺候候ひ​し時、仰せ​られ候ふ。衣の​えり​を御たたき​あり​て、南無阿弥陀仏よ​と仰せ​られ候ふ。また前住上人(実如)は御たたみ​を​たたか​れ、南無阿弥陀仏に​もたれ​たる​よし仰せ​られ候ひ​き。南無阿弥陀仏に身をば​まるめ​たる​と仰せ​られ候ふ​と符合申し候ふ。

(102)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。仏法の​うへ​には、事ごと​につきて空おそろしき​こと​と存じ候ふ​べく候ふ。ただ​よろづ​につきて油断ある​まじき​こと​と存じ候へ​の​よし、折々に仰せ​られ候ふ​と云々。仏法には明日と申す​こと​ある​まじく候ふ。仏法の​こと​は​いそげ​いそげ​と仰せ​られ候ふ​なり。

(103)

おなじく仰せ​に、今日の日は​ある​まじき​と思へ​と仰せ​られ候ふ。なにごと​も​かきいそぎ​て物を御沙汰候ふ​よし​に候ふ。ながなが​し​たる​こと​を御嫌ひ​の​よし​に候ふ。仏法の​うへ​には、明日の​こと​を今日する​やう​に​いそぎ​たる​こと、賞翫なり。

(104)

おなじく仰せ​に​いはく、聖人(親鸞)の御影を申す​は大事の​こと​なり。昔は御本尊より​ほか​は御座なき​こと​なり。信なく​は​かならず御罰を蒙る​べき​よし仰せ​られ候ふ。

(105)

時節到来といふ​こと、用心をも​して​その​うへ​に事の出でき候ふ​を、時節到来と​は​いふ​べし。無用心にて出でき候ふ​を時節到来と​は​いは​ぬ​こと​なり。聴聞を心がけ​て​の​うへ​の宿善・無宿善とも​いふ​こと​なり。ただ信心は​きく​に​きはまる​こと​なる​よし仰せ​の​よし候ふ。

(106)

前々住上人、(蓮如)法敬に対し​て仰せ​られ候ふ。まきたて​といふ​もの知り​たる​か​と。法敬御返事に、まきたて​と申す​は一度たね​を播き​て手を​ささ​ぬ​もの​に候ふ​と申さ​れ候ふ。仰せ​に​いはく、それ​ぞ、まきたて​わろき​なり。人に直さ​れ​まじき​と思ふ心なり。心中をば申し​いだし​て人に直さ​れ候は​では、心得の直る​こと​ある​べから​ず。まきたて​にて​は信を​とる​こと​ある​べから​ず​と仰せ​られ候ふ云々。

(107)

何とも​して人に直さ​れ候ふ​やう​に心中を持つ​べし。わが心中をば同行の​なか​へ打ち​いだし​て​おく​べし。下と​し​たる人の​いふ​こと​をば用ゐ​ず​して​かならず腹立する​なり。あさましき​こと​なり。ただ人に直さ​るる​やう​に心中を持つ​べき義に候ふ。

(108)

人の、前々住上人(蓮如)へ申さ​れ候ふ。一念の処決定にて候ふ。ややもすれば、善知識の御ことば​を​おろそかに存じ候ふ​よし申さ​れ候へ​ば、仰せ​られ候ふ​は、もつとも信の​うへ​は崇仰の心ある​べき​なり。さりながら、凡夫の心にて​は、かやう​の心中の​おこら​ん時は勿体なき​こと​と​おもひすつ​べし​と仰せ​られ​し​と云々。

(109)

蓮如上人、兼縁に対せ​られ仰せ​られ候ふ。たとひ木の皮を​きる​いろめ​なり​とも、な​わび​そ。ただ弥陀を​たのむ一念を​よろこぶ​べき​よし仰せ​られ候ふ。

(110)

前々住上人仰せ​られ候ふ。上下老若に​よら​ず、後生は油断にて​し​そんずべき​の​よし仰せ​られ候ふ。

(111)

前々住上人(蓮如)御口の​うち御煩ひ候ふ​に、をりふし御目を​ふさが​れ、ああ、と仰せ​られ候ふ。人の信なき​こと​を思ふ​こと​は、身を​きりさく​やう​に​かなしき​よ​と仰せ​られ候ふ​よし​に候ふ。

(112)

おなじく仰せ​に、われ​は人の機をかがみ、人に​したがひ​て仏法を御聞か​せ候ふ​よし仰せ​られ候ふ。いかにも人の​すき​たる​こと​など申さ​せ​られ、うれし​や​と存じ候ふ​ところ​に、また仏法の​こと​を仰せ​られ候ふ。いろいろ御方便にて、人に法を御聞か​せ候ひ​つる​よし​に候ふ。

(113)

前々住上人仰せ​られ候ふ。人々の仏法を信じ​て​われ​に​よろこば​せ​ん​と思へ​り。それ​は​わろし。信を​とれ​ば自身の勝徳なり。さりながら、信を​とら​ば、恩にも御うけ​ある​べき​と仰せ​られ候ふ。また、聞き​たく​も​なき​こと​なり​とも、まことに信を​とる​べき​ならば、きこしめす​べき​よし仰せ​られ候ふ。

(114)

おなじく仰せ​に、まことに一人なり​とも信を​とる​べき​ならば、身を捨てよ。それ​は​すたら​ぬ​と仰せ​られ候ふ。

(115)

あるとき仰せ​られ候ふ。御門徒の心得を直す​と​きこしめし​て、老の皺を​のべ候ふ​と仰せ​られ候ふ。

(116)

ある御門徒衆に御尋ね候ふ。そなた​の坊主、心得の直り​たる​を​うれしく存ずる​か​と御尋ね候へ​ば、申さ​れ候ふ。まことに心得を直さ​れ、法義を心に​かけ​られ候ふ。一段ありがたく​うれしく存じ候ふ​よし申さ​れ候ふ。その時仰せ​られ候ふ。われ​は​なほ​うれしく思ふ​よ​と仰せ​られ候ふ。

(117)

をかしき事態をも​させ​られ、仏法に退屈仕り候ふ​もの​の心をも​くつろげ、その気をも失は​し​て、また​あたらしく法を仰せ​られ候ふ。まことに善巧方便、ありがたき​こと​なり。

(118)

天王寺土塔会、前々住上人(蓮如)御覧候ひ​て仰せ​られ候ふ。あれ​ほど​の​おほき人ども地獄へ​おつ​べし​と、不便に思し召し候ふ​よし仰せ​られ候ふ。また​その​なか​に御門徒の人は仏に成る​べし​と仰せ​られ候ふ。これ​また​ありがたき仰せ​にて候ふ。

蓮如上人御一代記聞書 本

蓮如上人御一代記聞書 末

(119)

前々住上人(蓮如)御法談以後、四五人の御兄弟へ仰せ​られ候ふ。四五人の衆寄合ひ談合せよ。かならず五人は五人ながら意巧に​きく​ものなる​あひだ、よくよく談合す​べき​の​よし仰せ​られ候ふ。

(120)

たとひ​なき​こと​なり​とも、人申し候は​ば、当座領掌す​べし。当座に詞を返せ​ば、ふたたび​いは​ざる​なり。人の​いふ​こと​をば​ただ​ふかく用心す​べき​なり。これ​につきて​ある人、あひ​たがひに​あしき​こと​を申す​べし​と、契約候ひ​し​ところ​に、すなはち一人の​あしき​さま​なる​こと申し​けれ​ば、われ​は​さやうに存ぜ​ざれ​ども、人の申す​あひだ​さやうに候ふ​と申す。されば​この返答あしき​と​の​こと​に候ふ。さなき​こと​なり​とも、当座は​さぞ​と申す​べき​こと​なり。

(121)

一宗の繁昌と申す​は、人の​おほく​あつまり、威の​おほきなる​こと​にて​は​なく候ふ。一人なりとも、人の信を​とる​が、一宗の繁昌に候ふ。しかれば、「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)と​あそばさ​れ​おか​れ候ふ。

(122)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。聴聞心に入れ​まうさ​ん​と思ふ人は​あり、信を​とら​んずる​と思ふ人なし。されば極楽は​たのしむ​と聞き​て、まゐら​ん​と願ひ​のぞむ人は仏に成ら​ず、弥陀を​たのむ人は仏に成る​と仰せ​られ候ふ。

(123)

聖教をすき​こしらへ​もち​たる人の子孫には、仏法者いでくる​ものなり。ひとたび仏法を​たしなみ候ふ人は、おほやうなれ​ども​おどろき​やすき​なり。

(124)

御文は如来の直説なり​と存ず​べき​の​よし​に候ふ。形を​みれ​ば法然、詞を聞け​ば弥陀の直説といへり。

(125)

蓮如上人御病中に、慶聞に、なんぞ物を​よめ​と仰せ​られ候ふ​とき、御文を​よみ​まうす​べき​か​と申さ​れ候ふ。さらば​よみ​まうせ​と仰せ​られ候ふ。三通二度づつ六遍よま​せ​られ​て仰せ​られ候ふ。わが​つくり​たる​もの​なれども、殊勝なる​よ​と仰せ​られ候ふ。

(126)

順誓申さ​れ​し​と云々。常に​は​わが​まへ​にて​は​いは​ず​して、後言いふ​とて腹立する​こと​なり。われ​は​さやうに​は存ぜ​ず候ふ。わが​まへ​にて申し​にくく​は、かげ​にて​なり​とも​わが​わろき​こと​を申さ​れ​よ。聞き​て心中を​なほす​べき​よし申さ​れ候ふ。

(127)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。仏法の​ため​と思し召し候へ​ば、なにたる御辛労をも御辛労と​は思し召さ​れ​ぬ​よし仰せ​られ候ふ。御心まめ​にて、なにごと​も御沙汰候ふ​よし​なり。

(128)

法にはあらめなる​が​わろし。世間には微細なる​と​いへども、仏法には微細に心を​もち、こまかに心を​はこぶ​べき​よし仰せ​られ候ふ。

(129)

とほき​は​ちかき道理、ちかき​は​とほき道理あり。灯台もと​くらし​とて、仏法を不断聴聞申す身は、御用を厚く​かうぶり​て、いつ​も​の​こと​と思ひ、法義に​おろそかなり。とほく候ふ人は、仏法を​きき​たく大切に​もとむる​こころ​あり​けり。仏法は大切に​もとむる​より​きく​ものなり。

(130)

ひとつ​こと​を聞き​て、いつ​も​めづらしく初め​たる​やう​に、信の​うへ​にはある​べき​なり。ただ珍しき​こと​を​きき​たく思ふ​なり。ひとつ​こと​を​いくたび聴聞申す​とも、めづらしく初め​たる​やう​に​ある​べき​なり。

(131)

道宗は、ただ一つ御詞を​いつ​も聴聞申す​が、初め​たる​やう​に​ありがたき​よし申さ​れ候ふ。

(132)

念仏申す​も、人の名聞げに​おもは​れ​ん​と思ひ​て​たしなむ​が大儀なる​よし、ある人申さ​れ候ふ。常の人の心中に​かはり候ふ​こと。

(133)

同行同侶の目をはぢて冥慮を​おそれ​ず。ただ冥見を​おそろしく存ず​べき​こと​なり。

(134)

たとひ正義たり​とも、しげから​ん​こと​をば停止す​べき​よし候ふ。まして世間の儀停止候は​ぬ​こと​しかるべから​ず。いよいよ増長す​べき​は信心にて候ふ。

(135)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。仏法にはまゐらせ心わろし。これ​をして御心に叶は​ん​と思ふ心なり。仏法の​うへ​は​なにごと​も報謝と存ず​べき​なり​と云々。

(136)

人の身には眼・耳・鼻・舌・身・意の六賊ありて善心を​うばふ。これ​は諸行の​こと​なり。念仏は​しからず。仏智の心を​うる​ゆゑに、貪瞋痴の煩悩をば仏の方より刹那に消し​たまふ​なり。ゆゑに「貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」(散善義)といへり。「正信偈」には、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といへり。

(137)

一句一言を聴聞する​とも、ただ得手に法を聞く​なり。ただ​よく​きき、心中の​とほり​を同行に​あひ談合す​べき​こと​なり​と云々。

(138)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。神にも仏にも馴れ​ては、手で​す​べき​こと​を足にて​する​ぞ​と仰せ​られ​ける。如来・聖人(親鸞)・善知識にも馴れ​まうす​ほど御こころやすく思ふ​なり。馴れ​まうす​ほど​いよいよ渇仰の心を​ふかく​はこぶ​べき​こと​もつとも​なる​よし仰せ​られ候ふ。

(139)

口と身の​はたらき​と​は似する​ものなり。心根が​よく​なり​がたき​ものなり。涯分、心の方を嗜み​まうす​べき​こと​なり​と云々。

(140)

衣装等に​いたる​まで、わが物と思ひ踏み​たたくる​ことあさましきこと​なり。ことごとく聖人の御用物にて候ふ​あひだ、前々住上人は召し物など御足に​あたり候へ​ば、御いただき候ふ​よし承り​および候ふ。

(141)

王法は額に​あて​よ、仏法は内心に​ふかく蓄へ​よ​と​の仰せ​に候ふ。仁義といふ​こと​も、端正ある​べき​こと​なる​よし​に候ふ。

(142)

蓮如上人御若年の​ころ、御迷惑の​こと​にて候ひ​し。ただ御代にて仏法を仰せ​たて​られ​ん​と思し召し候ふ御念力一つ​にて御繁昌候ふ。御辛労ゆゑに候ふ。

(143)

御病中に蓮如上人仰せ​られ候ふ。御代に仏法を是非とも御再興あら​ん​と思し召し候ふ御念力一つ​にて、かやうに​いま​まで​みなみな心やすく​ある​こと​は、この法師が冥加に叶ふ​によりて​の​こと​なり​と御自讃あり​と云々。

(144)

前々住上人(蓮如)は、昔はこぶくめ​を​めさ​れ候ふ。白小袖とて御心やすく召さ​れ候ふ御こと​も御座なく候ふ​よし​に候ふ。いろいろ御かなしかり​ける​ことども、折々御物語り候ふ。今々の​もの​は​さやう​の​こと​を承り候ひ​て、冥加を存ず​べき​の​よし​くれぐれ仰せ​られ候ふ。

(145)

よろづ御迷惑にて、油を​めさ​れ候は​ん​にも御用脚なく、やうやう京の黒木を​すこし​づつ御とり候ひ​て、聖教など御覧候ふ​よし​に候ふ。また少々は月の光にて​も聖教をあそばさ​れ候ふ。御足をも​たいがい水にて御洗ひ候ふ。また二三日も御膳まゐり候は​ぬ​こと​も候ふ​よし承り​および候ふ。

(146)

人をもかひがひしく召し​つかは​れ候は​で​ある​うへ​は、幼童のむつき​をも​ひとり御洗ひ候ふ​など​と仰せ​られ候ふ。

(147)

存如上人召し​つかは​れ候ふ小者を、御雇ひ候ひ​て召し​つかは​れ候ふ​よし​に候ふ。存如上人は人を五人召し​つかは​れ候ふ。蓮如上人御隠居の時も、五人召し​つかは​れ候ふ。当時は御用とて心の​まま​なる​こと、そらおそろしく、身も​いたく​かなしく存ず​べき​こと​にて候ふ。

(148)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。昔は仏前に伺候の人は、本は紙絹に輻をさし着候ふ。いま​は白小袖にて、結句きがへ​を所持候ふ。これ​その​ころ​は禁裏にも御迷惑にて、質を​おか​れ​て御用に​させ​られ候ふ​と、引きごと​に御沙汰候ふ。

(149)

また仰せ​られ候ふ。御貧しく候ひ​て、京にて古き綿を御とり候ひ​て、御一人ひろげ候ふ​こと​あり。また御衣は​かた​の破れ​たる​を​めさ​れ候ふ。白き御小袖は美濃絹の​わろき​を​もとめ、やうやう一つ​めさ​れ候ふ​よし仰せ​られ候ふ。当時は​かやう​の​こと​をも​しり候は​で、ある​べき​やう​に​みなみな存じ候ふ​ほどに、冥加に​つき​まうす​べし。一大事なり。

(150)

同行・善知識には​よくよく​ちかづく​べし。「親近せざる​は雑修の失なり」と礼讃(意)に​あらはせ​り。あしき​もの​に​ちかづけ​ば、それ​には馴れ​じ​と思へ​ども、悪事よりよりに​あり。ただ仏法者には馴れ​ちかづく​べき​よし仰せ​られ候ふ。俗典に​いはく、「人の善悪は近づき習ふ​に​よる」と、また「その人を​しらん​と​おもは​ば、その友を​みよ」といへり。「善人の敵と​は​なる​とも、悪人を友と​する​こと​なかれ」といふ​こと​あり。

(151)

「きれ​ば​いよいよ​かたく、仰げ​ば​いよいよ​たかし」といふ​こと​あり。物を​きり​て​み​て​かたき​と​しる​なり。本願を信じ​て殊勝なる​ほど​も​しる​なり。信心おこり​ぬれ​ば、たふとく​ありがたく、よろこび​も増長ある​なり。

(152)

凡夫の身にて後生たすかる​こと​は、ただ易き​と​ばかり思へ​り。「難中之難」(大経・下)と​あれば、堅く​おこし​がたき信なれども、仏智より得やすく成就し​たまふ​こと​なり。「往生ほど​の一大事、凡夫の​はからふ​べき​に​あらず」(執持鈔(2))といへり。前住上人(実如)仰せ​に、後生一大事と存ずる人には御同心ある​べき​よし仰せ​られ候ふ​と云々。

(153)

仏説に信謗ある​べき​よし説き​おき​たまへ​り。信ずる​もの​ばかり​にて謗ずる人なく​は、説き​おき​たまふ​こと​いかが​とも思ふ​べき​に、はや謗ずる​もの​ある​うへは、信ぜ​ん​において​は​かならず往生決定と​の仰せ​に候ふ。

(154)

同行の​まへ​にて​は​よろこぶ​ものなり、これ名聞なり。信の​うへは一人居て​よろこぶ法なり。

(155)

仏法には世間の​ひま​を闕き​て​きく​べし。世間の隙を​あけ​て法を​きく​べき​やう​に思ふ​こと、あさましき​こと​なり。仏法には明日といふ​こと​は​ある​まじき​よし​の仰せ​に候ふ。「たとひ大千世界に みて​らん火をも​すぎ​ゆき​て 仏の御名を​きく​ひと​は ながく不退に​かなふ​なり」と、和讃(浄土和讃)にあそばさ​れ候ふ。

(156)

法敬申さ​れ候ふ​と云々。人寄合ひ、雑談あり​し​なかば​に、ある人ふと座敷を立た​れ候ふ。上人いかに​と仰せ​けれ​ば、一大事の急用あり​とて立た​れ​けり。その後、先日は​いかに​ふと立た​れ候ふ​や​と問ひ​けれ​ば、申さ​れ候ふ。仏法の物語、約束申し​たる​あひだ、ある​も​あら​れ​ず​して​まかり​たち候ふ​よし申さ​れ候ふ。法義には​かやうに​ぞ心を​かけ候ふ​べき​こと​なるよし申さ​れ候ふ。

(157)

仏法を​あるじ​と​し、世間を客人と​せよ​といへり。仏法の​うへ​より​は、世間の​こと​は時に​したがひ​あひ​はたらく​べき​こと​なり​と云々。

(158)

前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふ​を、いかが​とて、兼縁、前々住上人へ御目に​かけ​られ候へ​ば、仰せ​られ候ふ。名人の​せ​られ候ふ物をば​その​まま​にて置く​こと​なり。これ​が名誉なり​と仰せ​られ候ふ​なり。

(159)

前々住上人へ​ある人申さ​れ候ふ。開山(親鸞)の御時の​こと申さ​れ候ふ。これ​は​いかやう​の子細にて候ふ​と申さ​れ​けれ​ば、仰せ​られ候ふ。われ​も​しら​ぬ​こと​なり。なにごと​も​なにごと​も​しら​ぬ​こと​をも、開山の​めさ​れ候ふ​やう​に御沙汰候ふ​と仰せ​られ候ふ。

(160)

総体、人には​おとる​まじき​と思ふ心あり。この心にて世間には物をしならふ​なり。仏法には無我にて候ふ​うへは、人に​まけ​て信を​とる​べき​なり。理をみて情を折るこそ、仏の御慈悲よ​と仰せ​られ候ふ。

(161)

一心と​は、弥陀を​たのめ​ば如来の仏心と​ひとつ​に​なし​たまふ​がゆゑに、一心といへり。

(162)

ある人申さ​れ候ふ​と云々。われ​は井の水を飲む​も、仏法の御用なれば、水の一口も、如来・聖人(親鸞)の御用と存じ候ふ​よし申さ​れ候ふ。

(163)

蓮如上人御病中に仰せ​られ候ふ。御自身なにごと​も思し召し立ち候ふ​こと​の、成り​ゆく​ほど​の​こと​は​あれども、成ら​ず​といふ​こと​なし。人の信なき​こと​ばかり​かなしく御なげき​は思し召し​の​よし仰せ​られ候ふ。

(164)

おなじく仰せ​に、なにごと​をも思し召す​まま​に御沙汰あり。聖人の御一流をも御再興候ひ​て、本堂・御影堂をも​たて​られ、御住持をも御相続ありて、大坂殿を御建立ありて御隠居候ふ。しかれば、われ​は「功成り名遂げ​て身退く​は天の道なり」(老子)といふ​こと、それ御身の​うへ​なる​べきよし仰せ​られ候ふ​と。

(165)

敵の陣に火を​ともす​を、火にて​なき​と​は思は​ず。いかなる人なり​とも、御ことば​の​とほり​を申し、御詞を​よみ​まうさ​ば、信仰し、承る​べき​こと​なり​と。

(166)

蓮如上人、折々仰せ​られ候ふ。仏法の義をば​よくよく人に問へ。物をば人に​よく問ひ​まうせ​の​よし仰せ​られ候ふ。たれ​に問ひ​まうす​べき​よし​うかがひ​まうし​けれ​ば、仏法だに​も​あらば、上下を​いは​ず問ふ​べし。仏法は​しり​さう​も​なき​もの​が知る​ぞ​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(167)

蓮如上人、無紋の​もの​を着る​こと​を御きらひ候ふ。殊勝さう​に​みゆる​と​の仰せ​に候ふ。また、墨の黒き衣を着候ふ​を御きらひ候ふ。墨の黒き衣を着て、御所へ​まゐれ​ば仰せ​られ候ふ。衣紋ただしき殊勝の御僧の御出で候ふ​と、仰せ​られ候ひ​て、いや​われ​は殊勝にも​なし。ただ弥陀の本願殊勝なる​よし仰せ​られ候ふ。

(168)

大坂殿にて、紋の​ある御小袖を​させ​られ、御座の​うへ​に掛け​られ​て​おか​れ候ふ​よし​に候ふ。

(169)

御膳まゐり候ふ時には、御合掌ありて、如来・聖人(親鸞)の御用にて衣食ふ​よ​と仰せ​られ候ふ。

(170)

人は​あがり​あがり​ておちば​を​しら​ぬ​なり。ただ​つつしみ​て不断そらおそろしき​こと​と、毎事につけて心を​もつ​べき​の​よし仰せ​られ候ふ。

(171)

往生は一人のしのぎ​なり。一人一人仏法を信じ​て後生を​たすかる​こと​なり。よそごと​の​やう​に思ふ​こと​は、かつは​わが身を​しら​ぬ​こと​なり​と、円如仰せ候ひ​き。

(172)

大坂殿にて、ある人、前々住上人(蓮如)に申さ​れ候ふ。今朝暁より老い​たる​もの​にて候ふ​が​まゐら​れ候ふ。神変なる​こと​なる​よし申さ​れ候へ​ば、やがて仰せ​られ候ふ。信だに​あれば辛労と​は​おもは​ぬ​なり。信の​うへは仏恩報謝と存じ候へ​ば、苦労と​は思は​ぬ​なり​と仰せ​られ​し​と云々。老者と申す​は田上の了宗なり​と云々。

(173)

南殿にて人々寄合ひ、心中を​なにかとあつかひ​まうす​ところ​へ、前々住上人御出で候ひ​て仰せ​られ候ふ。なにごと​を​いふ​ぞ。ただ​なにごと​の​あつかひ​も思ひすて​て、一心に弥陀を疑なく​たのむ​ばかり​にて、往生は仏の​かた​より定め​まします​ぞ。その証は南無阿弥陀仏よ。この​うへは​なにごと​を​か​あつかふ​べき​ぞ​と仰せ​られ候ふ。もし不審など​を申す​にも、多事を​ただ御一言にて​はらり​と不審はれ候ひ​し​と云々。

(174)

前々住上人(蓮如)、「おどろかす​かひ​こそ​なけれ村雀 耳なれ​ぬれ​ばなるこ​にぞ​のる」、この歌を御引き​ありて折々仰せ​られ候ふ。ただ人は​みな耳なれ雀なり​と仰せ​られ​し​と云々。

(175)

心中を​あらため​ん​と​まで​は思ふ人は​あれども、信を​とら​ん​と思ふ人は​なき​なり​と仰せ​られ候ふ。

(176)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。方便を​わろし​といふ​こと​は​ある​まじき​なり。方便をもつて真実を​あらはす廃立の義よくよく​しる​べし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便に​より​て、真実の信をば​うる​こと​なる​よし仰せ​られ候ふ​と云々。

(177)

御文は​これ凡夫往生の鏡なり。御文の​うへ​に法門ある​べき​やう​に思ふ人あり。大きなる誤り​なり​と云々。

(178)

信の​うへは仏恩の称名退転ある​まじき​こと​なり。あるいは心より​たふとくありがたく存ずる​をば仏恩と思ひ、ただ念仏の申さ​れ候ふ​をば、それ​ほどに思は​ざる​こと、大きなる誤り​なり。おのづから念仏の申さ​れ候ふ​こそ、仏智の御もよほし、仏恩の称名なれ​と仰せごと​に候ふ。

(179)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。信の​うへは、たふとく思ひ​て申す念仏も、また​ふと申す念仏も仏恩に​そなはる​なり。他宗には親の​ため、また​なに​の​ため​なんど​とて念仏を​つかふ​なり。聖人(親鸞)の御一流には弥陀を​たのむ​が念仏なり。その​うへ​の称名は、なに​とも​あれ仏恩に​なる​ものなり​と仰せ​られ候ふ云々。

(180)

ある人いはく、前々住上人(蓮如)の御時、南殿と​やらん​にて、人、蜂を殺し候ふ​に、思ひよら​ず念仏申さ​れ候ふ。その時なにと思う​て念仏をば申し​たる​と仰せ​られ候へ​ば、ただかわい​や​と存ずる​ばかり​にて申し候ふ​と申さ​れ​けれ​ば、仰せ​られ候ふ​は、信の​うへは​なに​とも​あれ、念仏申す​は報謝の義と存ず​べし。みな仏恩に​なる​と仰せ​られ候ふ。

(181)

南殿にて、前々住上人(蓮如)、のうれん​を打ちあげ​られ​て御出で候ふ​とて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と仰せ​られ候ひ​て、法敬この心しり​たる​か​と仰せ​られ候ふ。なに​とも存ぜ​ず​と申さ​れ候へ​ば、仰せ​られ候ふ。これ​は​われ​は御たすけ候ふ、御うれし​や​たふと​や​と申す心よ​と仰せ​られ候ふ云々。

(182)

蓮如上人へ、ある人安心の​とほり申さ​れ候ふ。西国の人と云々 安心の一通り​を申さ​れ候へ​ば、仰せ​られ候ふ。申し候ふ​ごとく​の心中に候は​ば、それ​が肝要と仰せ​られ候ふ。

(183)

おなじく仰せ​られ候ふ。当時ことば​にて​は安心の​とほり​おなじ​やう​に申さ​れ候ひ​し。しかれば、信治定の人に紛れ​て、往生を​し​そんず​べき​こと​を​かなしく思し召し候ふ​よし仰せ​られ候ふ。

(184)

信の​うへはさのみ​わろき​こと​は​ある​まじく候ふ。あるいは人の​いひ候ふ​など​とて、あしき​こと​など​は​ある​まじく候ふ。今度生死の結句を​きり​て、安楽に生ぜ​ん​と思は​ん人、いかん​としてあしき​さま​なる​こと​を​す​べき​や​と仰せ​られ候ふ。

(185)

仰せ​に​いはく、仏法をば​さしよせ​て​いへ​いへ​と仰せ​られ候ふ。法敬に対し仰せ​られ候ふ。信心・安心と​いへ​ば、愚痴の​もの​は文字も​しら​ぬ​なり。信心・安心など​いへ​ば、別の​やう​にも思ふ​なり。ただ凡夫の仏に成る​こと​を​をしふ​べし。後生たすけ​たまへ​と弥陀を​たのめ​と​いふ​べし。なにたる愚痴の衆生なり​とも、聞き​て信を​とる​べし。当流には、これ​より​ほか​の法門は​なき​なり​と仰せ​られ候ふ。

安心決定鈔(本)に​いはく、「浄土の法門は、第十八の願を​よくよく​こころうる​の​ほか​には​なき​なり」といへり。

しかれば、御文には「一心一向に仏たすけ​たまへ​と申さ​ん衆生をば、たとひ罪業は深重なり​とも、かならず弥陀如来は​すくひ​まします​べし。これ​すなはち第十八の念仏往生の誓願の意なり」といへり。

(186)

信を​とら​ぬ​によりて​わろき​ぞ。ただ信を​とれ​と仰せ​られ候ふ。善知識の​わろきと仰せ​られ​ける​は、信の​なき​こと​を​わろき​と仰せ​らるる​なり。しかれば、前々住上人(蓮如)、ある人を、言語道断わろき​と仰せ​られ候ふ​ところ​に、その人申さ​れ候ふ。なにごと​も御意の​ごとく​と存じ候ふ​と申さ​れ候へ​ば、仰せ​られ候ふ。ふつと​わろき​なり。信の​なき​は​わろく​は​なき​か​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(187)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。なにたる​こと​を​きこしめし​ても、御心にはゆめゆめ叶は​ざる​なり​と。
一人なり​とも人の信を​とり​たる​こと​を​きこしめし​たき​と、御ひとりごと​に仰せ​られ候ふ。御一生は、人に信を​とら​せ​たく思し召さ​れ候ふ​よし仰せ​られ候ふ。

(188)

聖人(親鸞)の御流は​たのむ一念の​ところ肝要なり。ゆゑに、たのむ​といふ​こと​をば代々あそばし​おか​れ候へ​ども、くはしく​なにと​たのめ​といふ​こと​を​しらざり​き。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひ​て、「雑行を​すて​て、後生たすけ​たまへ​と一心に弥陀を​たのめ」と、あきらかに​しら​せ​られ候ふ。しかれば、御再興の上人にて​まします​ものなり。

(189)

よき​こと​を​し​たる​が​わろき​こと​あり、わろき​こと​を​し​たる​が​よき​こと​あり。よき​こと​を​し​ても、われ​は法義につきて​よき​こと​を​し​たる​と思ひ、われ​といふ​こと​あれば​わろき​なり。あしき​こと​を​し​ても、心中を​ひるがへし本願に帰すれば、わろき​こと​を​し​たる​が​よき道理に​なる​よし仰せ​られ候ふ。しかれば、蓮如上人は、まゐらせ心が​わろき​と仰せ​らるる​と云々。

(190)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。思ひよら​ぬ​もの​が分に過ぎ​て物を出し候は​ば、一子細ある​べき​と思ふ​べし。わがこころならひ​に人より​もの​を出せ​ば​うれしく思ふ​ほどに、なんぞ用を​いふ​べき時は、人が​さやうに​する​なり​と仰せ​られ候ふ。

(191)

行くさき​むかひ​ばかり​み​て、あしもと​を​み​ねば、踏みかぶる​べき​なり。人の​うへ​ばかり​み​て、わが身の​うへ​の​こと​をたしなま​ずは、一大事たる​べき​と仰せられ候ふ。

(192)

善知識の仰せ​なり​とも、成る​まじ​なんど思ふ​は、大きなる​あさましき​こと​なり。成ら​ざる​こと​なり​とも、仰せ​ならば成る​べき​と存ず​べし。この凡夫の身が仏に成る​うへは、さて​ある​まじき​と存ずる​こと​ある​べき​か。しかれば道宗、近江の湖を一人して​うめよ​と仰せ候ふ​とも、畏まり​たる​と申す​べく候ふ。仰せ​にて候は​ば、成ら​ぬ​こと​ある​べき​か​と申さ​れ候ふ。

(193)

「至りて​かたき​は石なり、至りて​やはらかなる​は水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹し​なば菩提の覚道なにごと​か成ぜ​ざら​ん」といへる古き詞あり。いかに不信なり​とも、聴聞を心に入れ​まうさ​ば、御慈悲にて候ふ​あひだ、信を​う​べき​なり。ただ仏法は聴聞に​きはまる​こと​なり​と云々。

(194)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。信決定の人を​み​て、あの​ごとく​なら​では​と思へ​ば​なる​ぞ​と仰せ​られ候ふ。あの​ごとくに​なり​て​こそ​と思ひすつる​こと、あさましき​こと​なり。仏法には身を​すて​て​のぞみ​もとむる心より、信をば得る​こと​なり​と云々。

(195)

人の​わろき​こと​は​よくよく​みゆる​なり。わが身の​わろき​こと​はおぼえ​ざる​ものなり。わが身に​しら​れ​て​わろき​こと​あらば、よくよく​わろけれ​ば​こそ身に​しら​れ候ふ​と​おもひ​て、心中を​あらたむ​べし。ただ人の​いふ​こと​をば​よく信用す​べし。わが​わろき​こと​は​おぼえ​ざる​ものなる​よし仰せ​られ候ふ。

(196)

世間の物語ある座敷にて​は、結句法義の​こと​を​いふ​こと​も​あり。さやう​の段は人なみ​たる​べし。心には油断ある​べから​ず。あるいは講談、また​は仏法の讃嘆など​いふ時、一向に物を​いは​ざる​こと大きなる違ひ​なり。仏法讃嘆と​あら​ん時は、いか​にも心中を​のこさ​ず、あひ​たがひに信不信の義、談合申す​べき​こと​なり​と云々。

(197)

金森の善従に、ある人申さ​れ候ふ。この​あひだ、さこそ徒然に御入り候ひつ​らん​と申し​けれ​ば、善従申さ​れ候ふ。わが身は八十に​あまる​まで徒然といふ​こと​を​しら​ず。そのゆゑは、弥陀の御恩の​ありがたき​ほど​を存じ、和讃・聖教等を拝見申し候へ​ば、心おもしろく​も、また​たふとき​こと充満する​ゆゑに、徒然なる​こと​もさらに​なく候ふ​と申さ​れ候ふ​よし​に候ふ。

(198)

善従申さ​れ候ふ​とて、前住上人(実如)仰せ​られ候ふ。ある人、善従の宿所へ行き候ふ​ところ​に、履をも脱ぎ候は​ぬ​に、仏法の​こと申し​かけ​られ候ふ。また​ある人申さ​れ候ふ​は、履を​さへ​ぬが​れ候は​ぬ​に、いそぎ​かやうに​は​なに​とて仰せ候ふ​ぞ​と、人申し​けれ​ば、善従申さ​れ候ふ​は、出づる息は入る​を​また​ぬ浮世なり。もし履を​ぬが​れ​ぬ​ま​に死去候は​ば、いかが候ふ​べき​と申さ​れ候ふ。ただ仏法の​こと​をば、さし急ぎ申す​べき​の​よし仰せ​られ候ふ。

(199)

前々住上人(蓮如)、善従の​こと​を仰せ​られ候ふ。いまだ野村殿御坊、その沙汰も​なき​とき、神無森を​とほり国へ下向の​とき、輿より​おり​られ候ひ​て、野村殿の方を​さし​て、このとほり​にて仏法が​ひらけ​まうす​べし​と申さ​れ候ひし。人々、これ​は年より​て​かやう​の​こと​を申さ​れ候ふ​など申し​けれ​ば、つひに御坊御建立にて御繁昌候ふ。不思議の​こと​と仰せ​られ候ひ​き。また善従は法然の化身なり​と、世上に人申し​つる​と、おなじく仰せ​られ候ひ​き。かの往生は八月二十五日にて候ふ。

(200)

前々住上人(蓮如)東山を御出で候ひ​て、いづかた​に御座候ふ​とも、人存ぜ​ず候ひ​し​に、この善従あなた​こなた尋ね​まうさ​れ​けれ​ば、ある所にて御目に​かから​れ候ふ。一段御迷惑の体にて候ひ​つる​あひだ、前々住上人にもさだめて善従かなしま​れ​まうす​べき​と思し召さ​れ候へ​ば、善従御目に​かから​れ、あら​ありがた​や、はや仏法は​ひらけ​まうす​べき​よ​と申さ​れ候ふ。つひに​この詞符合候ふ。善従は不思議の人なり​と、蓮如上人仰せ​られ候ひ​し​よし、上人(実如)仰せ​られ候ひ​き。

(201)

前住上人(実如)、先年大永三、蓮如上人二十五年の三月始め​ごろ、御夢御覧候ふ。御堂上壇南の方に前々住上人御座候ひ​て、紫の御小袖を​めされ候ふ。前住上人(実如)へ対し​まゐらせ​られ、仰せ​られ候ふ。仏法は讃嘆・談合に​きはまる。よくよく讃嘆す​べき​よし仰せ​られ候ふ。まことに夢想とも​いふ​べき​こと​なり​と仰せ​られ候ひ​き。しかれば​その年、ことに讃嘆を肝要と仰せ​られ候ふ。それ​につきて仰せ​られ候ふ​は、仏法は一人居て悦ぶ法なり。一人居て​さへ​たふとき​に、まして二人寄合は​ば​いかほど​ありがたかる​べき。仏法をば​ただ寄合ひ寄合ひ談合申せ​の​よし仰せ​られ候ふ​なり。

(202)

心中を改め候は​ん​と申す人、なに​を​か​まづ改め候は​ん​と申さ​れ候ふ。よろづ​わろき​こと​を改め​て​と、かやうに仰せ​られ候ふ。いろ​を​たて、きは​を立て申し​いで​て改む​べき​こと​なり​と云々。なに​にて​も​あれ、人の直さ​るる​を​きき​て、われ​も直る​べき​と思う​て、わがとが​を申し​いださ​ぬ​は、直ら​ぬ​ぞ​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(203)

仏法談合の​とき物を申さ​ぬ​は、信の​なき​ゆゑなり。わが心にたくみ案じ​て申す​べき​やう​に思へ​り。よそなる物を​たづね​いだす​やう​なり。心に​うれしき​ことは​その​まま​なる​ものなり。寒なれば寒、熱なれば熱と、その​まま心の​とほり​を​いふ​なり。仏法の座敷にて物を申さ​ぬ​こと​は、不信の​ゆゑなり。また油断といふ​こと​も信の​うへ​の​こと​なる​べし。細々同行に寄合ひ讃嘆申さ​ば、油断は​ある​まじき​の​よし​に候ふ。

(204)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。一心決定の​うへ、弥陀の御たすけ​あり​たり​といふは、さとり​の​かた​にして​わろし。たのむ​ところ​にて​たすけ​たまひ候ふ​こと​は歴然に候へ​ども、御たすけ​あら​うず​と​いう​て​しかるべき​の​よし仰せ​られ候ふ云々。一念帰命の時、不退の位に住す。これ不退の密益なり、これ涅槃分なる​よし仰せ​られ候ふ​と云々。

(205)

徳大寺の唯蓮坊、摂取不捨のことわり​を​しり​たき​と、雲居寺の阿弥陀に祈誓あり​けれ​ば、夢想に、阿弥陀のいま​の人の袖を​とらへ​たまふ​に、にげ​けれ​ども​しかととらへ​て​はなし​たまは​ず。摂取といふは、にぐる​もの​を​とらへ​て​おき​たまふ​やう​なる​こと​と、ここ​にて思ひつき​たり。これ​を引き言に仰せ​られ候ふ。

(206)

前々住上人(蓮如)御病中に、兼誉・兼縁御前に伺候して、ある時尋ね​まうさ​れ候ふ。冥加といふ​こと​は​なにと​し​たる​こと​にて候ふ​と申せ​ば、仰せ​られ候ふ。冥加に叶ふ​といふは、弥陀を​たのむ​こと​なる​よし仰せ​られ候ふ​と云々。

(207)

人に仏法の​こと​を申し​て​よろこば​れ​ば、われ​は​その​よろこぶ人より​も​なほ​たふとく思ふ​べき​なり。仏智を​つたへ​まうす​によりて、かやうに存ぜ​られ候ふ​こと​と思ひ​て、仏智の御方を​ありがたく存ぜ​らる​べし​と​の義に候ふ。

(208)

御文を​よみ​て人に聴聞させ​ん​とも、報謝と存ず​べし。一句一言も信の​うへ​より申せ​ば人の信用も​あり、また報謝とも​なる​なり。

(209)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。弥陀の光明は、たとへ​ば​ぬれ​たる物を​ほす​に、うへよりひ​て、した​まで​ひる​ごとく​なる​こと​なり。これ​は日の力なり。決定の心おこる​は、これ​すなはち他力の御所作なり。罪障は​ことごとく弥陀の御消し​ある​こと​なる​よし仰せ​られ候ふ​と云々。

(210)

信心治定の人は​たれ​に​よら​ず、まづ​みれ​ば​すなはち​たふとく​なり候ふ。これ​その人の​たふとき​に​あらず。仏智を​え​らるる​がゆゑなれ​ば、弥陀仏智の​ありがたき​ほど​を存ず​べき​こと​なり​と云々。

(211)

蓮如上人御病中の時仰せ​られ候ふ。御自身なにごと​も思し召し​のこさ​るる​こと​なし​と。ただ御兄弟の​うち、その外たれ​にも信の​なき​を​かなしく思し召し候ふ。世間にはよみぢ​の​さはり​といふ​こと​あり。われ​において​は往生す​とも​それ​なし。ただ信の​なき​こと、これ​を歎かしく思し召し候ふ​と仰せ​られ候ふ​と。

(212)

蓮如上人、あるいは人に御酒をも下さ​れ、物をも下さ​れ​て、かやう​の​ことども​ありがたく存ぜ​させ近づけ​させ​られ候ひ​て、仏法を御きか​せ候ふ。されば​かやうに物を下さ​れ候ふ​こと​も、信を​とら​せ​らる​べき​ため​と思し召せ​ば、報謝と思し召し候ふ​よし仰せ​られ候ふ​と云々。

(213)

おなじく仰せ​に​いはく、心得た​と思ふ​は心得ぬ​なり。心得ぬ​と思ふ​は心得たる​なり。弥陀の御たすけ​ある​べき​こと​の​たふとさ​よ​と思ふ​が、心得たる​なり。少し​も心得たる​と思ふ​こと​は​ある​まじき​こと​なり​と仰せ​られ候ふ。されば口伝鈔(4)に​いはく、「されば​この機の​うへ​に​たもつ​ところの弥陀の仏智をつのら​ん​より​ほか​は、凡夫いかでか往生の得分ある​べき​や」といへり。

(214)

加州菅生の願生、坊主の聖教を​よま​れ候ふ​を​きき​て、聖教は殊勝に候へ​ども、信が御入り​なく候ふ​あひだ、たふとく​も御入り​なき​と申さ​れ候ふ。この​こと​を前々住上人(蓮如)きこしめし、蓮智を​めし​のぼせ​られ、御前にて不断聖教をも​よま​せ​られ、法義の​こと​をも仰せ​きか​せ​られ​て、願生に仰せ​られ候ふ。蓮智に聖教をも​よみ​ならは​せ、仏法の​こと​をも仰せ​きか​せ​られ候ふよし仰せ​られ候ひ​て、国へ御下し候ふ。その後は聖教を​よま​れ候へ​ば、いま​こそ殊勝に候へ​とて、ありがた​がら​れ候ふ​よし​に候ふ。

(215)

蓮如上人、幼少なる​もの​には、まづ物を​よめ​と仰せ​られ候ふ。また​その後は、いかに​よむとも復せ​ずは詮ある​べから​ざる​よし仰せ​られ候ふ。ちと物に心も​つき候へ​ば、いかに物を​よみ声を​よく​よみ​しり​たる​とも、義理を​わきまへ​て​こそ​と仰せ​られ候ふ。その後は、いかに文釈を覚え​たり​とも、信が​なく​はいたづらごと​よ​と仰せ​られ候ふ。

(216)

心中の​とほり、ある人、法敬坊に申さ​れ候ふ。御詞の​ごとく​は覚悟仕り候へ​ども、ただ油断・不沙汰にて、あさましき​こと​のみ​に候ふ​と申さ​れ候ふ。その時法敬坊申さ​れ候ふ。それは御詞の​ごとくに​て​は​なく候ふ。勿体なき申さ​れ​ごと​に候ふ。御詞には、油断・不沙汰な​せ​そ​と​こそ、あそばさ​れ候へ​と申さ​れ候ふ​と云々。

(217)

法敬坊に、ある人不審申さ​れ候ふ。これ​ほど仏法に御心をも入れ​られ候ふ法敬坊の尼公の不信なる、いかが​の義に候ふ​よし申さ​れ候へ​ば、法敬坊申さ​れ候ふ。不審さる​こと​なれども、これ​ほど朝夕御文を​よみ候ふ​に、驚き​まうさ​ぬ心中が、なにか法敬が申し分にて聞きいれ候ふ​べき​と申さ​れ候ふ​と云々。

(218)

順誓申さ​れ候ふ。仏法の物語申す​に、かげ​にて申し候ふ段は、なにたる​わろき​こと​を​か申す​べき​と存じ、脇より汗たり​まうし候ふ。前々住上人(蓮如)聞し召す​ところ​にて申す時は、わろき​こと​をば​やがて御なほし​ある​べき​と存じ候ふ​あひだ、心安く存じ候ひ​て、物をも申さ​れ候ふ​よし​に候ふ。

(219)

前々住上人仰せ​られ候ふ。不審と一向しら​ぬ​と​は各別なり。知ら​ぬ​こと​をも不審と申す​こと、いはれ​なく候ふ。物を分別し​て、あれ​は​なに​と、これ​は​いかが​など​いふ​やう​なる​こと​が不審にて候ふ。子細も​しら​ず​して申す​こと​を、不審と申し​まぎら​かし候ふ​よし仰せ​られ候ふ。

(220)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。御本寺・御坊をば聖人(親鸞)御存生の時の​やう​に思し召さ​れ候ふ。御自身は、御留主を当座御沙汰候ふ。しかれども御恩を御忘れ候ふ​こと​は​なく候ふ​と、御斎の御法談に仰せ​られ候ひ​き。御斎を御受用候ふ​あひだ​にも、すこし​も御忘れ候ふ​こと​は御入り​なき​と仰せ​られ候ふ。

(221)

善如上人・綽如上人両御代の​こと、前住上人(実如)仰せ​られ候ふ​こと、両御代は威儀を本に御沙汰候ひ​し​よし仰せ​られ​し。しかれば、いまに御影に御入り候ふ​よし仰せ​られ候ふ。黄袈裟・黄衣にて候ふ。しかれば、前々住上人の御時、あまた御流に​そむき候ふ本尊以下、御風呂の​たび​ごと​に焼か​せ​られ候ふ。この二幅の御影をも焼か​せ​らる​べき​にて御取り​いだ​し候ひ​つる​が、いかが思し召し候ひ​つる​やらん、表紙に書付を「よし・わろし」と​あそばさ​れ​て、とり​て​おか​せ​られ候ふ。

この​こと​を​いま御思案候へ​ば、御代の​うち​さへ​かやうに御違ひ候ふ。まして​いはんやわれら式の​もの​は違ひ​たる​べき​あひだ、一大事と存じ​つつしめ​よ​と​の御こと​に候ふ。いま思し召し​あはせ​られ候ふ​よし仰せ​られ候ふ​なり。

また「よし・わろし」と​あそばさ​れ候ふ​こと、わろし​と​ばかり​あそばし候へ​ば、先代の御こと​にて候へ​ば​と思し召し、かやうに​あそばさ​れ候ふ​こと​に候ふ​と仰せ​られ候ふ。また前々住上人(蓮如)の御時、あまた昵近の​かたがた違ひ​まうす​こと候ふ。いよいよ一大事の仏法の​こと​をば、心を​とどめ​て細々人に問ひ心得まうす​べき​の​よし仰せ​られ候ふ。

(222)

仏法者の​すこし​の違ひ​を見て​は、あの​うへ​さへ​かやうに候ふ​と​おもひ、わが身を​ふかく嗜む​べき​こと​なり。しかるを、あの​うへ​さへ御違ひ候ふ、まして​われら​は違ひ候は​では​と思ふ​こころ、おほきなる​あさましき​こと​なり​と云々。

(223)

仏恩を嗜む​と仰せ候ふ​こと、世間の物を嗜む​など​と​いふ​やう​なる​こと​にて​は​なし。信の​うへ​に​たふとく​ありがたく存じ​よろこび​まうす透間に懈怠申す時、かかる広大の御恩を​わすれ​まうす​こと​の​あさましさ​よ​と、仏智に​たちかへり​て、ありがた​や​たふと​や​と思へ​ば、御もよほし​に​より念仏を申す​なり。嗜む​と​は​これ​なる​よし​の義に候ふ。

(224)

仏法に厭足なけれ​ば、法の不思議を​きく​といへり。前住上人(実如)仰せ​られ候ふ。たとへば世上に​わが​すき​このむ​こと​をば​しり​ても​しり​ても、なほ​よく​しり​たう思ふ​に、人に問ひ、いくたび​も数奇たる​こと​をば聞き​ても聞き​ても、よく​きき​たく思ふ。仏法の​こと​も​いくたび聞き​ても​あか​ぬ​こと​なり。しり​ても​しり​ても存じ​たき​こと​なり。法義をば、幾度も幾度も人に問ひ​きはめ​まうす​べき​こと​なる​よし仰せ​られ候ふ。

(225)

世間へ​つかふ​こと​は、仏の物をいたづらに​する​こと​よ​と、おそろしく思ふ​べし。さりながら、仏法の方へ​は​いかほど物を入れ​ても​あか​ぬ道理なり。また報謝にも​なる​べし​と云々。

(226)

人の辛労も​せ​で徳を​とる上品は、弥陀を​たのみ​て仏に成る​に​すぎ​たる​こと​なしと仰せ​られ候ふ​と云々。

(227)

皆人ごと​に​よき​こと​を​いひ​も​し、働き​も​する​こと​あれば、真俗ともに​それ​を、わが​よき​もの​に​はや​なり​て、その心にて御恩といふ​こと​は​うちわすれ​て、わが​こころ本に​なる​によりて、冥加に​つき​て、世間・仏法ともに悪しき心が​かならず​かならず出来する​なり。一大事なり​と云々。

(228)

堺にて兼縁、前々住上人(蓮如)へ御文を御申し候ふ。その時仰せ​られ候ふ。年も​より候ふ​に、むつかしき​こと​を申し候ふ。まづ​わろき​こと​を​いふ​よ​と仰せ​られ候ふ。後に仰せ​られ候ふ​は、ただ仏法を信ぜ​ば、いかほど​なり​とも​あそばし​て​しかるべき​よし仰せ​られ​し​と云々。

(229)

おなじく堺の御坊にて、前々住上人、夜更け​て蝋燭を​ともさ​せ、名号を​あそばさ​れ候ふ。その時仰せ​られ候ふ。御老体にて御手も振ひ、御目も​かすみ候へ​ども、明日越中へ下り候ふ​と申し候ふ​ほどに、かやうに​あそばさ​れ候ふ。辛労を​かへりみら​れ​ず​あそばさ​れ候ふ​と仰せ​られ候ふ。しかれば、御門徒の​ため​に御身をば​すて​られ候ふ。人に辛労をも​させ候はで、ただ信を​とら​せ​たく思し召し候ふ​よし仰せ​られ候ふ。

(230)

重宝の珍物を調へ経営を​して​もてなせ​ども、食せ​ざれ​ば​その詮なし。同行寄合ひ讃嘆すれ​ども、信を​とる人なけれ​ば、珍物を食せ​ざる​と​おなじ​こと​なり​と云々。

(231)

物に​あく​こと​は​あれども、仏に成る​こと​と弥陀の御恩を喜ぶ​と​は、あき​たる​こと​は​なし。焼く​とも失せ​も​せ​ぬ重宝は、南無阿弥陀仏なり。しかれば、弥陀の広大の御慈悲殊勝なり。信ある人を見る​さへ​たふとし。よくよく​の御慈悲なり​と云々。

(232)

信決定の人は、仏法の方へ​は身を​かろく​もつ​べし。仏法の御恩をば​おもく​うやまふ​べし​と云々。

(233)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。宿善めでたし​といふ​は​わろし。御一流には宿善ありがたし​と申す​が​よく候ふよし仰せ​られ候ふ。

(234)  

他宗には法に​あひ​たる​を宿縁といふ。当流には信を​とる​こと​を宿善といふ。信心を​うる​こと肝要なり。されば​この御をしへ​には群機を​もらさ​ぬ​ゆゑに、弥陀の教をば弘教とも​いふ​なり。

(235)

法門をば申す​には、当流の​こころ​は信心の一義を申し披き立て​たる、肝要なり​と云々。

(236)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。仏法者には法の威力にて成る​なり。威力で​なく​は成る​べから​ず​と仰せ​られ候ふ。されば仏法をば、学匠・物しりはいひたて​ず。ただ一文不知の身も、信ある人は仏智を加へ​らるる​ゆゑに、仏力にて候ふ​あひだ、人が信を​とる​なり。この​ゆゑに聖教よみ​とて、しかも​われ​は​と思は​ん人の、仏法を​いひたて​たる​こと​なし​と仰せ​られ候ふ​こと​に候ふ。ただ​なに​しら​ね​ども、信心定得の人は仏より​いは​せ​らるる​あひだ、人が信を​とる​と​の仰せ​に候ふ。

(237)

弥陀を​たのめ​ば南無阿弥陀仏の主に成る​なり。南無阿弥陀仏の主に成る​といふは、信心を​うる​こと​なり​と云々。また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なり​と云々。

(238)

一流真宗の​うち​にて法を​そしり、わろさまに​いふ人あり。これ​を思ふ​に、他門・他宗の​こと​は是非なし。一宗の​うち​に​かやう​の人も​ある​に、われら宿善ありて​この法を信ずる身の​たふとさ​よ​と思ふ​べし​と云々。

(239)

前々住上人(蓮如)には、なにたる​もの​をも​あはれみ​かはゆく思し召し候ふ。大罪人とて人を殺し候ふ​こと、一段御悲しみ候ふ。存命も​あらば心中を直す​べし​と仰せ​られ候ひ​て、御勘気候ひ​ても、心中を​だに​も直り候へ​ば、やがて御宥免候ふ​と云々。

(240)

安芸の蓮崇、国を​くつがへし、くせごと​につきて、御門徒を​はなさ​れ候ふ。前々住上人(蓮如)御病中に御寺内へ​まゐり、御詫言申し候へ​ども、とりつぎ候ふ人なく候ひ​し。その折節、前々住上人ふと仰せ​られ候ふ。安芸をなほさ​う​と思ふ​よ​と仰せ​られ候ふ。御兄弟以下御申す​には、一度仏法にあだ​を​なし​まうす人にて候へ​ば、いかが​と御申し候へ​ば、仰せ​られ候ふ。

それ​ぞ​とよ、あさましき​こと​を​いふ​ぞ​とよ。心中だに直ら​ば、なにたる​もの​なり​とも、御もらし​なき​こと​に候ふ​と仰せ​られ候ひ​て、御赦免候ひ​き。その時御前へ​まゐり、御目に​かから​れ候ふ時、感涙畳に​うかび候ふ​と云々。しかうして御中陰の​うち​に、蓮崇も寺内にてすぎ​られ候ふ。

(241)

奥州に御一流の​こと​を申し​まぎらかし候ふ人を​きこしめし​て、前々住上人奥州の浄祐を御覧候ひ​て、もつてのほか御腹立候ひ​て、さてさて開山聖人(親鸞)の御流を申し​みだす​こと​の​あさましさ​よ、にくさ​よ​と仰せ​られ候ひ​て、御歯を​くひしめ​られ​て、さて切りきざみ​てもあく​か​よ​あく​か​よ​と仰せ​られ候ふ​と云々。仏法を申し​みだす​もの​をば、一段あさましき​ぞ​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(242)

思案の頂上と申す​べき​は、弥陀如来の五劫思惟の本願に​すぎ​たる​こと​は​なし。この御思案の道理に同心せ​ば、仏に成る​べし。同心とて別に​なし。機法一体の道理なり​と云々。

(243)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。御身一生涯御沙汰候ふ​こと、みな仏法にて、御方便・御調法候ひ​て、人に信を御とら​せ​ある​べき御ことわり​にて候ふ​よし仰せ​られ候ふ云々。

(244)

おなじく御病中に仰せ​られ候ふ。いま​わが​いふ​こと​は金言なり。かまへて​かまへて、よく意得よと仰せ​られ候ふ。また御詠歌の​こと、三十一字に​つづくる​こと​にて​こそ​あれ。これ​は法門にて​ある​ぞ​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(245)

「愚者三人に智者一人」とて、なにごと​も談合すれば面白き​こと​ある​ぞ​と、前々住上人(蓮如)、前住上人(実如)へ御申し候ふ。これ​また仏法がた​には​いよいよ肝要の御金言なり​と云々。

(246)

蓮如上人、順誓に対し仰せ​られ候ふ。法敬と​われ​と​は兄弟よ​と仰せ​られ候ふ。法敬申さ​れ候ふ。これ​は冥加も​なき御こと​と申さ​れ候ふ。蓮如上人仰せ​られ候ふ。信をえ​つれ​ば、さき​に生るる​もの​は兄、後に生るる​もの​は弟よ。法敬と​は兄弟よ​と仰せ​られ候ふ。「仏恩を一同に​うれ​ば、信心一致の​うへは四海みな兄弟」(論註・下意)といへり。

(247)

南殿山水の御縁の床の​うへ​にて、蓮如上人仰せ​られ候ふ。物は思ひ​たる​より大きに​ちがふ​といふ​は、極楽へ​まゐり​て​の​こと​なる​べし。ここ​にて​ありがた​や​たふと​や​と思ふ​は、物の数にて​も​なき​なり。かの土へ生じ​て​の歓喜は、ことのは​も​ある​べから​ず​と仰せ​られ​し​と。

(248)

人は​そらごと申さ​じ​と嗜む​を、随分と​こそ思へ。心に偽り​あら​じ​と嗜む人は、さのみ多く​は​なき​ものなり。また​よき​こと​は​なら​ぬ​まで​も、世間・仏法ともに心に​かけ嗜み​たき​こと​なり​と云々。

(249)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。安心決定鈔の​こと、四十余年が​あひだ御覧候へ​ども、御覧じ​あか​ぬ​と仰せ​られ候ふ。また、金を​ほり​いだす​やう​なる聖教なり​と仰せ​られ候ふ。

(250)

大坂殿にて​おのおの​へ対せ​られ仰せ​られ候ふ。この​あひだ申し​し​こと​は、安心決定鈔の​かたはし​を仰せ​られ候ふ​よし​に候ふ。しかれば、当流の義は安心決定鈔の義、いよいよ肝要なり​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(251)

法敬申さ​れ候ふ。たふとむ人より、たふとがる人ぞ​たふとかり​ける​と。前々住上人仰せ​られ候ふ。面白き​こと​を​いふ​よ。たふとむ体、殊勝ぶり​する人は​たふとく​も​なし。ただ​ありがた​や​と​たふとがる人こそ​たふとけれ。面白き​こと​を​いふ​よ、もつとも​の​こと​を申さ​れ候ふ​と​の仰せごと​に候ふ​と云々。

(252)

文亀三、正月十五日の夜、兼縁夢に​いはく、前々住上人、兼縁へ御問ありて仰せ​られ候ふ​やう、いたづらに​ある​こと​あさましく思し召し候へ​ば、稽古かたがた、せめて一巻の経をも、日に一度、みなみな寄合ひ​て​よみ​まうせ​と仰せ​られ​けり​と云々。あまりに人の​むなしく月日を送り候ふ​こと​を悲しく思し召し候ふ​ゆゑの義に候ふ。

(253)

おなじく夢に​いはく、同年の極月二十八日の夜、前々住上人(蓮如)、御袈裟・衣にて襖障子を​あけ​られ御出で候ふ​あひだ、御法談聴聞申す​べき心にて候ふ​ところ​に、ついたち障子の​やう​なる物に、御文の御詞御入れ候ふ​を​よみ​まうす​を御覧じ​て、それ​は​なん​ぞ​と御尋ね候ふ​あひだ、御文にて候ふ​よし申し上げ候へ​ば、それ​こそ肝要、信仰し​て​きけ​と仰せ​られ​けり​と云々。

(254)

おなじく夢に​いはく、翌年極月二十九日夜、前々住上人仰せ​られ候ふ​やう​は、家をば​よく作ら​れ​て、信心を​よく​とり念仏申す​べき​よし、かたく仰せ​られ候ひ​けり​と云々。

(255)

おなじく夢に​いはく、近年、大永三、正月一日の夜の夢に​いはく、野村殿南殿にて前々住上人(蓮如)仰せ​に​いはく、仏法の​こと​いろいろ仰せ​られ候ひ​て後、田舎には雑行雑修ある​を、かたく申しつく​べし​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(256)

おなじく夢に​いはく、大永六、正月五日夜、夢に前々住上人仰せ​られ候ふ。一大事にて候ふ。今の時分が​よき時にて候ふ。ここ​を​とりはづし​ては一大事と仰せ​られ候ふ。畏まり​たり​と御うけ御申し候へ​ば、ただ​その畏まり​たる​といふ​にて​は​なく候ふ​まじく候ふ。ただ一大事にて候ふ​よし仰せ​られ候ひ​し​と云々。

 つぎの夜、夢に​いはく、蓮誓仰せ候ふ。吉崎にて前々住上人に当流の肝要の​こと​を習ひ​まうし候ふ。一流の依用なき聖教や​なんど​を​ひろく​みて、御流をひがざまに​とりなし候ふ​こと候ふ。幸ひに肝要を抜き候ふ聖教候ふ。これ​が一流の秘極なり​と、吉崎にて前々住上人に習ひ​まうし候ふ​と、蓮誓仰せ​られ候ひ​し​と云々。

 わたくし​に​いはく、夢等を​しるす​こと、前々住上人世を去り​たまへ​ば、いまは​その一言をも大切に存じ候へ​ば、かやうに夢に入り​て仰せ候ふ​こと​の金言なる​こと、まこと​の仰せ​とも存ずる​まま、これ​を​しるす​ものなり。まことに​これ​は夢想とも申す​べき​こと​ども​にて候ふ。総体、夢は妄想なり、さりながら、権者の​うへ​には瑞夢とて​ある​こと​なり。なほ​もつて​かやう​の金言の​ことば​は​しるす​べし​と云々。

(257)

仏恩が​たふとく候ふ​など​と申す​は聞き​にくく候ふ、聊爾なり。仏恩を​ありがたく存ず​と申せ​ば、莫大聞き​よく候ふ​よし仰せ​られ候ふ​と云々。御文が​と申す​も聊爾なり。御文を聴聞申し​て、御文ありがたし​と申し​て​よき​よし​に候ふ。仏法の方をば​いかほど​も尊敬申す​べき​こと​と云々。

(258)

仏法の讃嘆の​とき、同行を​かたがた​と申す​は平懐なり。御方々と申し​て​よき​よし仰せごと​と云々。

(259)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。家を​つくり候ふ​とも、つぶり​だに​ぬれず​は、なに​とも​か​ともつくる​べし。万事過分なる​こと​を御きらひ候ふ。衣装等に​いたる​まで​も、よき​もの着ん​と思ふ​は​あさましき​こと​なり。冥加を存じ、ただ仏法を心に​かけ​よ​と仰せ​られ候ふ云々。

(260)

おなじく仰せ​られ候ふ。いかやう​の人にて候ふ​とも、仏法の家に奉公申し候は​ば、昨日まで​は他宗にて候ふ​とも、今日は​はや仏法の御用と​こころう​べく候ふ。たとひあきなひ​を​する​とも、仏法の御用と心得べき​と仰せ​られ候ふ。

(261)

おなじく仰せ​に​いはく、雨も​ふり、また炎天の時分は、つとめ​ながながしく仕り候は​で、はやく仕り​て、人を​たた​せ候ふ​が​よく候ふ​よし仰せ​られ候ふ。これ​も御慈悲にて、人々を御いたはり候ふ。大慈大悲の御あはれみ​に候ふ。つねづね​の仰せ​には、御身は人に御したがひ候ひ​て、仏法を御すすめ候ふ​と仰せ​られ候ふ。御門徒の身にて御意の​ごとくなら​ざる​こと、なかなか​あさましき​こと​ども、なかなか申す​も​こと​おろかに候ふ​と​の義に候ふ。

(262)

将軍家 義尚 より​の義にて、加州一国の一揆、御門徒を放さ​る​べき​と​の義にて、加州居住候ふ御兄弟衆をも​めし​のぼせ​られ候ふ。その​とき前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。加州の衆を門徒放す​べき​と仰せ​いださ​れ候ふ​こと、御身を​きら​るる​より​も​かなしく思し召し候ふ。なにごと​をも​しら​ざる尼入道の類の​こと​まで思し召さ​ば、なに​とも御迷惑この​こと​に極まる​よし仰せ​られ候ふ。御門徒をやぶら​るる​と申す​こと​は、一段、善知識の御うへ​にて​も​かなしく思し召し候ふ​こと​に候ふ。

(263)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。御門徒衆のはじめて物を​まゐらせ候ふ​を、他宗に出し候ふ義あしく候ふ。一度も二度も受用せしめ候ひ​て、出し候ひ​て​しかるべき​の​よし仰せ​られ候ふ。かくのごとく​の子細は存じ​も​よら​ぬ​こと​にて候ふ。いよいよ仏法の御用、御恩を​おろそかに存ず​べき​こと​にて​は​なく候ふ。驚き入り候ふ​と​の​こと​に候ふ。

(264)

法敬坊、大坂殿へ下ら​れ候ふ​ところ​に、前々住上人仰せ​られ候ふ。御往生候ふ​とも、十年は生く​べし​と仰せ​られ候ふ​ところ​に、なにかと申さ​れ、おしかへし、生く​べし​と仰せ​られ候ふ​ところ、御往生ありて一年存命候ふ​ところ​に、法敬に​ある人仰せ​られ候ふ​は、前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ​に​あひ​まうし​たる​よ。そのゆゑは、一年も存命候ふ​は、命を前々住上人より御あたへ候ふ​ことにて候ふ​と仰せ候へ​ば、まことにさ​にて御入り候ふ​とて、手を​あはせ、ありがたき​よし​を申さ​れ候ふ。それ​より後、前々住上人仰せ​られ候ふ​ごとく、十年存命候ふ。まことに冥加に叶は​れ候ふ。不思議なる人にて候ふ。

(265)

毎事無用なる​こと​を仕り候ふ義、冥加なき​よし、条々、いつ​も仰せ​られ候ふ​よし​に候ふ。

(266)

蓮如上人、物を​きこしめし候ふ​にも、如来・聖人(親鸞)の御恩にて​ましまし候ふ​を御忘れ​なし​と仰せ​られ候ふ。一口きこしめし​ても、思し召し​いださ​れ候ふ​よし仰せ​られ候ふ​と云々。

(267)

御膳を御覧じ​ても、人の食は​ぬ飯を食ふ​こと​よ​と思し召し候ふ​と仰せ​られ候ふ。物を​すぐに​きこしめす​こと​なし。ただ御恩の​たふとき​こと​を​のみ思し召し候ふ​と仰せ​られ候ふ。

(268)

享禄二年十二月十八日の夜、兼縁夢に、蓮如上人、御文を​あそばし下さ​れ候ふ。その御詞に、梅干の​たとへ候ふ。梅干の​こと​を​いへ​ば、みな人の口一同に酸し。一味の安心は​かやうに​ある​べき​なり。「同一念仏無別道故」(論註・下)の心にて候ひ​つる​やうに​おぼえ候ふと云々。

(269)

仏法を好か​ざる​が​ゆゑに嗜み候は​ず​と、空善申さ​れ候へ​ば、蓮如上人仰せ​られ候ふ。それ​は、好ま​ぬ​は嫌ふ​にて​は​なき​か​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(270)

不法の人は仏法を違例に​する​と仰せ​られ候ふ。仏法の御讃嘆あれば、あら気づまり​や、疾く​はて​よ​かし​と思ふ​は、違例に​する​にて​は​なき​か​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(271)

前住様(実如)御病中、正月二十四日に仰せ​られ候ふ。前々住(蓮如)の早々われ​に来い​と、左の御手にて御まねき候ふ。あら​ありがた​や​と、くりかへし​くりかへし仰せ​られ候ひ​て、御念仏御申し候ふ​ほどに、おのおの御心たがひ候ひ​て、かやうに​も仰せ候ふ​と存じ候へ​ば、その義にて​は​なく​して、御まどろみ候ふ御夢に御覧ぜ​られ候ふ​よし仰せ​られ候ふ​ところ​にて、みなみな安堵候ひ​き。これ​またあらたなる御事なり​と云々。

(272)

おなじき二十五日、兼誉・兼縁に対せ​られ仰せ​られ候ふ。前々住上人(蓮如)御世を譲り​あそばさ​れ​て以来の​こと​ども、種々仰せ​られ候ふ。御一身の御安心の​とほり仰せ​られ、一念に弥陀を​たのみ​まうし​て往生は一定と思し召さ​れ候ふ。それ​につきて、前住上人(蓮如)の御恩にて、今日まで​われと思ふ心を​もち候は​ぬ​が​うれしく候ふ​と仰せ​られ候ふ。まことに​ありがたく​も、また​は驚き​いり​まうし候ふ。われ、人、かやうに心得まうし​て​こそ​は、他力の信心決定申し​たる​にて​は​ある​べく候ふ。いよいよ一大事の御こと​に候ふ。

(273)

嘆徳の文に、親鸞聖人と申せ​ば、その恐れ​ある​ゆゑに、祖師聖人と​よみ候ふ。また開山聖人と​よみ​まうす​も、おそれ​ある子細にて御入り候ふと云々。

(274)

ただ「聖人」と直に申せ​ば、聊爾なり。「この聖人」と申す​も、聊爾か。「開山」と​は、略し​ては申す​べき​か​と​の​こと​に候ふ。ただ「開山聖人」と申し​て​よく候ふ​と云々。

(275)

嘆徳の文に、「以て弘誓に託す」と申す​こと​を、「以て」を抜き​ては​よま​ず候ふ​と云々。

(276)

蓮如上人、堺の御坊に御座の時、兼誉御まゐり候ふ。御堂において卓の​うへ​に御文を​おか​せ​られ​て、一人二人 乃至 五人十人、まゐら​れ候ふ人々に対し、御文を​よま​せ​られ候ふ。その夜、蓮如上人御物語り​の時仰せ​られ候ふ。この​あひだ面白き​こと​を思ひ​いだし​て候ふ。つね​に御文を一人なり​とも来らん人にも​よま​せ​て​きか​せ​ば、有縁の人は信を​とる​べし。この​あひだ面白き​こと​を思案し​いだし​たる​と、くれぐれ仰せ​られ候ふ。さて御文肝要の御こと​と、いよいよ​しら​れ候ふ​と​の​こと​と仰せ​られ候ふ​なり。

(277)

今生の​こと​を心に入るる​ほど、仏法を心腹に入れ​たき​こと​にて候ふ​と、人申し候へ​ば、世間に対様して申す​こと​は大様なり。ただ仏法を​ふかく​よろこぶ​べし​と云々。
また​いはく、一日一日に仏法は​たしなみ候ふ​べし。一期と​おもへ​ば大儀なり​と、人申さ​れ候ふ。また​いはく、大儀なる​と思ふ​は不足なり。人として命は​いかほど​も​ながく候ひ​ても、あか​ず​よろこぶ​べき​こと​なり​と云々。

(278)

坊主は人を​さへ勧化せ​られ候ふ​に、わが身を勧化せ​られ​ぬ​は​あさましき​こと​なり​と云々。

(279)

道宗、前々住上人(蓮如)へ御文申さ​れ候へ​ば、仰せ​られ候ふ。文は​とり​おとし候ふ​こと​も候ふ​ほどに、ただ心に信を​だに​も​とり候へ​ば、おとし候は​ぬよし仰せ​られ候ひ​し。また​あくる年、あそばさ​れ​て、下さ​れ候ふ。

(280)

法敬坊申さ​れ候ふ。仏法を​かたる​に、志の人を​まへ​に​おき​て語り候へ​ば、力が​ありて申し​よき​よし申さ​れ候ふ。

(281)

信も​なく​て大事の聖教を所持の人は、をさなき​もの​に剣を持た​せ候ふ​やう​に思し召し候ふ。そのゆゑは、剣は重宝なれども、をさなき​もの持ち候へ​ば、手を切り怪我を​する​なり。持ち​て​よく候ふ人は重宝に​なる​なり​と云々。

(282)

前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。ただ​いま​なり​とも、われ、死ね​と​いは​ば、死ぬる​もの​は​ある​べく候ふ​が、信を​とる​もの​は​ある​まじき​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(283)

前々住上人、大坂殿にて​おのおの​に対せ​られ​て仰せ​られ候ふ。一念に凡夫の往生を​とぐる​こと​は秘事・秘伝にて​は​なき​か​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(284)

御普請・御造作の時、法敬申さ​れ候ふ。なに​も不思議に、御眺望等も御上手に御座候ふ​よし申さ​れ候へ​ば、前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。われ​は​なほ不思議なる​こと​を知る。凡夫の仏に成り候ふ​こと​を知り​たる​と仰せ​られ候ふ​と。

(285)

蓮如上人、善従に御かけ字を​あそばさ​れ​て、下さ​れ候ふ。その後善従に御尋ね候ふ。以前書き​つかはし候ふ物をば​なにと​し​たる​と仰せ​られ候ふ。善従申さ​れ候ふ。表補絵仕り候ひ​て、箱に入れ置き​まうし候ふ​よし申さ​れ候ふ。その​とき仰せ​られ候ふ。それ​はわけ​も​なき​こと​を​し​たる​よ。不断かけ​て​おき​て、その​ごとく心ね​なせ​よ​といふ​こと​で​こそ​あれ​と仰せ​られ候ふ。

(286)

おなじく仰せ​に​いはく、これ​の内に居て聴聞申す身は、とり​はづし​たら​ば仏に成ら​ん​よ​と仰せ​られ候ふ​と云々。ありがたき仰せ​に候ふ。

(287)

仰せ​に​いはく、坊主衆等に対せ​られ仰せ​られ候ふ。坊主といふ​もの​は大罪人なり​と仰せ​られ候ふ。その時みなみな迷惑申さ​れ候ふ。さて仰せ​られ候ふ。罪が​ふかけれ​ば​こそ、阿弥陀如来は御たすけ​あれ​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(288)

毎日毎日に、御文の御金言を聴聞させ​られ候ふ​こと​は、宝を御賜り候ふ​こと​に候ふ​と云々。

(289)

開山聖人(親鸞)の御代、高田の 二代 顕智上洛の時、申さ​れ候ふ。今度はすでに御目に​かかる​まじき​と存じ候ふ​ところ​に、不思議に御目に​かかり候ふ​と申さ​れ候へ​ば、それ​は​いかに​と仰せ​られ候ふ。舟路に難風に​あひ、迷惑仕り候ふ​よし申さ​れ候ふ。聖人仰せ​られ候ふ。それ​ならば、船には乗ら​る​まじき​ものを​と仰せ​られ候ふ。その後、御詞の末にて候ふ​とて、一期、舟に乗ら​れ​ず候ふ。
また茸に酔ひ​まうさ​れ、御目に遅く​かから​れ候ひ​し​とき​も、かくのごとく仰せ​られ​し​とて、一期受用なく候ひ​し​と云々。かやうに仰せ​を信じ、ちがへ​まうす​まじき​と存ぜ​られ候ふ​こと、まことに​ありがたき殊勝の覚悟と​の義に候ふ。

(290)  

身あたたかなれ​ば、眠気さし候ふ。あさましき​こと​なり。その覚悟にて身をも​すずしく​もち、眠り​を​さます​べき​なり。身随意なれば、仏法・世法ともに​おこたり、無沙汰・油断あり。この義一大事なり​と云々。

(291)

信を​え​たらば、同行に​あらく物も申す​まじき​なり、心和らぐ​べき​なり。触光柔軟の願(第三十三願)あり。また信なけれ​ば、我に​なり​て詞も​あらく、諍ひ​も​かならず出でくる​ものなり。あさまし​あさまし、よくよく​こころう​べし​と云々。

(292)

前々住上人(蓮如)、北国の​さる御門徒の​こと​を仰せ​られ候ふ。なにとして​ひさしく上洛なき​ぞ​と仰せ​られ候ふ。御前の人申さ​れ候ふ。さる御方の御折檻候ふ​と申さ​れ候ふ。その時御機嫌もつてのほか悪しく候ひ​て、仰せ​られ候ふ。開山聖人(親鸞)の御門徒を​さやうに​いふ​もの​は​ある​べから​ず。御身一人聊爾には思し召さ​ぬ​ものを、なにたる​もの​が​いふ​べき​とも、とくとく​のぼれ​と​いへ​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(293)

前住上人仰せ​られ候ふ。御門徒衆を​あしく申す​こと、ゆめゆめ​ある​まじき​なり。開山(親鸞)は御同行・御同朋と御かしづき候ふ​に、聊爾に存ずる​は​くせごと​の​よし仰せ​られ候ふ。

(294)

開山聖人の一大事の御客人と申す​は、御門徒衆の​こと​なり​と仰せ​られ​し​と云々。

(295)

御門徒衆上洛候へ​ば、前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ。寒天には御酒等の​かん​を​よく​させ​られ​て、路次の寒さ​をも忘ら​れ候ふ​やう​に​と仰せ​られ候ふ。また炎天の時は、酒など冷せ​と仰せ​られ候ふ。御詞を​くはへ​られ候ふ。また、御門徒の上洛候ふ​を、遅く申し入れ候ふ​こと​くせごと​と仰せ​られ候ふ。御門徒を​また​せ、おそく対面する​こと​くせごと​の​よし仰せ​られ候ふ​と云々。

(296)

万事につきて、よき​こと​を思ひ​つくる​は御恩なり、悪しき​こと​だに思ひ捨て​たる​は御恩なり。捨つる​も取る​も、いづれ​も​いづれ​も御恩なり​と云々。

(297)

前々住上人(蓮如)は御門徒の進上物をば、御衣の​した​にて御拝み候ふ。また仏の物と思し召し候へ​ば、御自身の召し物まで​も、御足に​あたり候へ​ば、御いただき候ふ。御門徒の進上物、すなはち聖人(親鸞)より​の御あたへ​と思し召し候ふ​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(298)

仏法には、万かなしき​にも、かなは​ぬ​につけて​も、なにごと​につけて​も、後生のたすかる​べき​こと​を思へ​ば、よろこび​おほき​は仏恩なり​と云々。

(299)

仏法者に​なれ近づき​て、損は一つ​も​なし。なにたる​をかしき​こと、狂言にも、是非とも心底には仏法ある​べし​と思ふ​ほどに、わが方に徳おほきなり​と云々。

(300)

蓮如上人、権化の再誕といふ​こと、その証おほし。まへに​これ​を​しるせ​り。御詠歌に、「かたみ​には六字の御名を​のこし​おく なから​ん​あと​の​かたみ​とも​なれ」と候ふ。弥陀の化身と​しら​れ候ふ​こと歴然たり。

(301)

蓮如上人、細々御兄弟衆等に御足を御見せ候ふ。御わらぢ​の緒くひ入り、きらりと御入り候ふ。かやうに京・田舎、御自身は御辛労候ひ​て、仏法を仰せ​ひらか​れ候ふ​よし仰せ​られ候ひ​し​と云々。

(302)

おなじく仰せ​に​いはく、悪人の​まね​を​す​べき​より、信心決定の人の​まね​を​せよ​と仰せ​られ候ふ云々。

(303)

蓮如上人御病中、大坂殿より御上洛の時、明応八、二月十八日、さんば​の浄賢の処にて、前住上人(実如)へ対し御申し​なさ​れ候ふ。

御一流の肝要をば、御文に​くはしく​あそばし​とどめ​られ候ふ​あひだ、いま​は申し​まぎらかす​もの​も​ある​まじく候ふ。この分を​よくよく御心得あり、御門徒中へ​も仰せ​つけ​られ候へ​と御遺言の​よし​に候ふ。しかれば、前住上人(実如)の御安心も御文の​ごとく、また諸国の御門徒も、御文の​ごとく信を​え​られ​よ​と​の支証の​ため​に、御判を​なさ​れ候ふ​こと​と云々。

(304)

存覚は大勢至の化身なり​と云々。しかるに六要鈔には三心の字訓その​ほか、「勘得せず」と​あそばし、「聖人(親鸞)の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へ​ども、聖人の御作分を​かくのごとく​あそばし候ふ。まことに聖意はかり​がたき​むね​を​あらはし、自力を​すて​て他力を仰ぐ本意にも叶ひ​まうし候ふ物をや。かやう​の​こと​が名誉にて御入り候ふ​と云々。

(305)

註を御あらはし候ふ​こと、御自身の智解を御あらはし候は​んがために​て​は​なく候ふ。御詞を褒美の​ため、仰崇の​ため​にて候ふ​と云々。

(306)

存覚御辞世の御詠に​いはく、「いま​は​はや一夜の夢と​なり​にけり 往来あまた​の​かり​の​やど​やど」。この言を蓮如上人仰せ​られ候ふ​と云々。さては釈迦の化身なり、往来娑婆の心なり​と云々。わが身に​かけ​て​こころえ​ば、六道輪廻めぐり​めぐり​て、いま臨終の夕、さとり​を​ひらく​べし​といふ心なり​と云々。

(307)

陽気・陰気とて​あり。されば陽気を​うる花は​はやく開く​なり、陰気とて日陰の花は遅く咲く​なり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明に​あひ​て、はやく開くる人も​あり、遅く開くる人も​あり。とにかくに、信・不信ともに仏法を心に入れ​て聴聞申す​べき​なり​と云々。已今当の​こと、前々住上人(蓮如)仰せ​られ候ふ​と云々。昨日あらはす人も​あり、今日あらはす人も​あり​と仰せ​られ​しと云々。

(308)

蓮如上人、御廊下を御とほり候ひ​て、紙切れ​の​おち​て候ひ​つる​を御覧ぜ​られ、仏法領の物をあだに​する​かや​と仰せ​られ、両の御手にて御いただき候ふ​と云々。総じて紙の切れ​なんど​の​やう​なる物をも、仏物と思し召し御用ゐ候へ​ば、あだに御沙汰なく候ふ​の​よし、前住上人(実如)御物語り候ひ​き。

(309)

蓮如上人、近年仰せ​られ候ふ。御病中に仰せ​られ候ふ​こと、なにごと​も金言なり。心を​とめ​て聞く​べし​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(310)

御病中に慶聞を​めし​て仰せ​られ候ふ。御身には不思議なる​こと​ある​を、気を​とりなほし​て仰せ​らる​べき​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(311)

蓮如上人仰せ​られ候ふ。世間・仏法ともに、人はかろがろ​と​し​たる​が​よき​と仰せ​られ候ふ。黙し​たる​もの​を御きらひ候ふ。物を申さ​ぬ​が​わろき​と仰せ​られ候ふ。また微音に物を申す​を​わろし​と仰せ​られ候ふ​と云々。

(312)

おなじく仰せ​に​いはく、仏法と世体と​は嗜み​に​よる​と、対句に仰せ​られ候ふ。
また法門と庭の松と​はいふ​にあがる​と、これ​も対句に仰せ​られ候ふ​と云々。

(313)

兼縁、堺にて、蓮如上人御存生の時、背摺布を買得あり​けれ​ば、蓮如上人仰せ​られ候ふ。かやう​の物は​わが方にも​ある​ものを、無用の買ひごと​よ​と仰せ​られ候ふ。兼縁、自物にて​とり​まうし​たる​と答へ​まうし候ふ​ところ​に、仰せ​られ候ふ。それ​は​わが物か​と仰せ​られ候ふ。ことごとく仏物、如来・聖人(親鸞)の御用に​もるる​こと​は​あるまじく候ふ。

(314)

蓮如上人、兼縁に物を下さ​れ候ふ​を、冥加なき​と御辞退候ひ​けれ​ば、仰せ​られ候ふ。つかはさ​れ候ふ物をば、ただ取り​て信を​よく​とれ。信なく​は冥加なき​とて仏の物を受け​ぬ​やう​なる​も、それ​は曲も​なき​こと​なり。われ​する​と​おもふ​か​とよ。皆御用なり。なにごと​か御用に​もるる​こと​や候ふ​べき​と仰せ​られ候ふ​と云々。

                           実如(御判)

蓮如上人御一代記聞書 末