親鸞聖人御消息(現代語訳)

親鸞聖人御消息

(1)
有念無念ということについて。
来迎は諸行往生すなわちさまざまな行を修めて浄土に往生しようとする人についていうのであり、 それは、 自力の行者だからです。 臨終の時に往生が定まるということは、 諸行往生の人についていうのであり、 それは、 まだ真実の信心を得ていないからです。 また十悪・五逆の罪を犯した人が、 臨終の時にはじめて善知識に出会い、 念仏を勧められる際にいうことなのです。 ^真 実の信心を得た人は、 阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので正定聚の位に定まっています。 だから、 臨終の時まで待つ必要もありませんし、 来迎をたよりにする必要もありません。 信心が定まるとのときに往生もまた定まるのです。 来迎のための儀式を当てにする必要はありません。
正念というのは、 阿弥陀仏の大いなる本願に誓われた真実の信心が定まることをいうのです。 この信心を得るから、 必ずこの上ないさとりの世界に至るのです。 この信心を一心といい、 この一心を金剛心といい、 この金剛心を大菩提心というのです。 これがすなわち他力の中の他力です。
また正念について、 さらに二つがあります。 一つには定善を修める人の正念、 二つには散善を修める人の正念です。 この二つの正念は、 他力の中の自力の正念です。 定善や散善の行は、 諸行往生の中でいわれることです。 これらの善は他力の中の自力の善なのです。 このような自力の行を修める人は、 来迎がないと辺地や胎宮や懈慢界などといわれる方便の浄土にさえ生れることができません。 だから第十九願に、 「さまざまな善を積み、 浄土に回向し、 往生したいと願う人が、 命を終えようとする時、 わたしはその人の前に現れて迎え取りましょう」 と誓われているのです。 臨終の時まで待つということと来迎により往生するということは、 このような定善や散善を修める人がいうことです。
選択本願の教えは、 有念を説くものでも無念を説くものでもありません。 有念とは、 仏やその浄土の色や形を心に思い浮べることをいうのです。 無念とは、 色や形を心に思い浮べることなく、 そのような思いさえないことをいうのです。 これらはすべて聖道門です。 聖道門というのは、 すでに仏になられた方が、 わたしたちを導こうとして示された、 仏心宗・真言宗・天台宗・華厳宗・三論宗などの大乗の究極の教えです。 仏心宗とは、 世間に広まっている禅宗のことです。 また、 法相宗や成実宗・倶舎宗といった権教や、 小乗などの教えも、 すべて聖道門です。 権教というのは、 すでにさとりを開かれた仏や菩薩が、 仮にさまざまなすがたを現してお導きになるので 「権」 というのです。
浄土の教えにも有念と無念があります。 有念とは散善のことで、 無念とは定善のことです。 浄土門の無念は聖道門の無念とは異なるものです。 また、 この聖道門の無念の中に、 さらに有念といわれるものがあります。 これらについてはその道の方に詳しくお尋ねになるとよいでしょう。
浄土の教えの中に真と化とがあります。 真というのは選択本願であり、 化というのは定善と散善です。 選択本願は浄土真宗すなわち浄土の真実の教えであり、 定善と散善は方便として仮に説かれた教えです。 この浄土真宗こそ大乗の中の究極の教えです。 方便として仮に説かれた教えの中にまた、 大乗と小乗、 権教と実教があります。 釈尊の善知識は百十人です。 このことは 華厳経¼ に説かれています。
南無阿弥陀仏
建長三年閏九月二十日
愚禿親鸞七十九歳

(2)
各地からのお志を、 記された数の通り確かにいただきました。 明教房が京都に来られているのはうれしいことです。 みなさんのお志には、 お礼の申しあげようもありません。 明法房が浄土に往生なさったということは、 驚くようなことではありませんが、 本当にうれしく思っております。 鹿島や行方や奥群などの、 往生を願っておられるすべての人々にとってよろこばしいことです。 また、 平塚の入道殿が往生なさったこともお聞きしましたが、 何とも言葉に表しようのない思いです。 その尊さは、 言葉でいい尽すことができません。 みなさん一人一人も往生は間違いないとお思いにならなければなりません。 けれども、 往生を願っておられる人々の中でも、 教えが十分に理解されないことがありました。 今もきっとそうであろうと思います。 京都でも教えを十分に理解せず、 さまざまにいいあって迷っているようです。 地方でもそのようなことが多くあると聞いています。 法然上人のお弟子の中にも、 自分はすぐれた学僧であるなどと思っている人々が、 今ではみな、 聖教の言葉をさまざまにいい換えて、 自らも迷い他の人をも迷わせて、 互いに思い悩んでいるようです。
聖教を見ることもなくその教えの内容を知らないみなさんのような人々が、 往生のさまたげとなるものは何もないということだけを聞いて、 誤って理解することが多くありました。 今もきっとそうであろうと思います。 浄土の教えも知らない信見房などがいうことによって、 ますます誤解を深めておられるように聞きますが、 それは実に嘆かわしいことです。
そもそもみなさんは、 かつては阿弥陀仏の本願も知らず、 その名号を称えることもありませんでしたが、 釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、 今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになられたのです。 以前は無明の酒に酔って、 貪欲・瞋恚・愚痴の三毒ばかりを好んでおられましたが、 阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、 無明の酔いも次第に醒め、 少しずつ三毒も好まないようになり、 阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。
ところが、 まだ酔いも醒めていないのに重ねて酒を勧め、 毒も消えていないのにさらに毒を勧めるようなことは、 実に嘆かわしいことです。 煩悩をそなえた身であるからといって、 心にまかせて、 してはならないことをし、 いってはならないことをいい、 思ってはならないことを思い、 どのようにでも心のままにすればよいといいあっているようですが、 それは何とも心の痛むことです。 酔いも醒めないうちにさらに酒を勧め、 毒も消えないうちにますます毒を勧めるようなものです。 薬があるから好きこのんで毒を飲みなさいというようなことはあってはならないと思います。 ^阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、 念仏するようになってから久しい人々は、 後に迷いの世界に生れることを厭い、 わが身の悪を厭い捨てようとするすがたがあらわれてくるはずだと思います。
はじめて阿弥陀仏の本願を聞いて、 自らの悪い行いや悪い心を思い知り、 このようなわたしではとても往生することなどできないであろうという人にこそ、 煩悩をそなえた身であるから、 阿弥陀仏はわたしたちの心の善し悪しを問うことなく、 間違いなく浄土に迎えてくださるのだと説かれるのです。 このように聞いて阿弥陀仏を信じようと思う心が深くなると、 心からこの身を厭い、 迷いの世界を生れ変り死に変りし続けることをも悲しんで、 深く阿弥陀仏の本願を信じ、 その名号を進んで称えるようになるのです。 以前は心にまかせて悪い心を起し悪い行いをしていたけれども、 今はそのような心を捨てようとお思いになることこそ、 この迷いの世界を厭うすがたであろうと思います。 また、 浄土往生を疑うことのない信心は、 釈尊と阿弥陀仏のお勧めによっておこると示されているので、 煩悩をそなえた身であっても、 真実の信心をいただいたからには、 どうしてかつての心のままでいられるでしょうか。
みなさんの中にも、 少しよくないうわさがあるようです。 師を謗り、 善知識を軽んじ、 念仏の仲間でも互いにおとしめあったりしておられると聞きますのは、 実に嘆かわしいことです。 これらの人はすでに謗法の人であり、 五逆の人です。 親しく接してはなりません。 往生論註という書物には、 「このような人は仏法を信じる心がないから、 悪い心がおこるのである」 といわれています。 また 観経疏に 「至誠心」 を解釈する中で、 「このように悪を好むような人から気をつけて離れ、 近づいてはいけない」 といわれています。 これは、 善知識や念仏の仲間には親しく近づきなさいと説き示されているのです。
悪を好む人に親しく近づくようなことは、 浄土へ往生した後に、 すべてのものを救うために再びこの迷いの世界にかえってこそ、 はじめてそのような罪を犯した人にも親しく近づくことがあるのです。 それも、 自らのはからいによるのではありません。 阿弥陀仏の本願のはたらきによる救いであるからこそ、 思い通りに振舞うこともできるでしょう。 煩悩をそなえている今のわたしたちのようなものでは、 どうすることができるでしょうか。 よくお考えになっていただきたいと思います。
浄土往生を疑うことのない金剛の信心がおこるのは、 仏のはたらきによるのですから、 その信心を得た人は、 決して師を謗り善知識をおとしめるようなことはないと思います。 鹿島や行方や南の庄など、 どちらにでも、 浄土往生を願っておられる方に、 この手紙を等しく読み聞かせていただきたいと思います。 謹んで申しあげます。
建長四年二月二十四日

(3)
このたび明教房が京都に来られたことは本当にありがたいことと思っております。 明法房が往生なさったことを直接お聞きしましたのもうれしいことです。 またみなさんのお志も、 ありがたく思っております。 いずれにしても人々が京都に来られることは何とも思いがけなくうれしいことです。 この手紙をどなたにも同じように読み聞かせていただきたいと思います。 奥群におられる念仏の仲間のみなさんで、 等しくご覧になってください。 謹んで申しあげます。
長年の間念仏して往生を願うすがたとは、 かつての自らの悪い心をあらためて、 同じ念仏の仲間とも互いに親しむ思いを持つようになることです。 これが迷いの世界を厭うすがたであろうと思います。 十分にお心得ください。

(4)
お手紙を何度かお送りしました。 ご覧にならなかったのでしょうか。 何よりも明法房が往生の本意を遂げられたことは、 常陸の国の往生を願っておられる人々にとって、 よろこばしいことです。 往生は凡夫があれこれと思いはからってできることではありません。 智慧のすぐれた方でも思いはからうことではありません。 大乗・小乗の聖人でさえも、 あれこれと思いはからうことなく、 ただ本願のはたらきにまかせておられるのです。 まして皆さんのような人々にとっては、 ただこの本願があるということを聞き、 南無阿弥陀仏にあうことこそ、 たぐいまれな尊い果報なのです。 あれこれと思いはからうことなど、 決してあってはなりません。 以前にお送りしました 唯信鈔や 自力他力事などの書物をご覧になってください。 これらをお書きになった聖覚法印や隆寛律師こそ、 今の世のわたしたちにとっての善知識なのです。 すでに往生を遂げておられる方々ですので、 どのようなことであってもこれらの書物に書かれていることにまさるものは何一つあるはずがありません。 法然上人の教えを深く心得ておられる方々でした。 だからこそ、 往生もめでたく遂げておられるのです。
長年の間念仏しておられる方々の中にも、 ただ自分勝手な考えばかりを互いにいいあっている人々もいました。 今もきっとそうであろうと思います。 明法房などが浄土に往生しておられるのも、 かつてはとんでもない誤った考えを持っていたその心をあらためたからに他なりません。 自分は往生できるはずだからといって、 してはならないことをし、 思ってはならないことを思い、 いってはならないことをいうようなことがあってはなりません。 貪欲の煩悩に狂わされて欲望も起り、 瞋恚の煩悩に狂わされて憎む理由もないのに憎む心も起り、 愚痴の煩悩に惑わされて思ってはならない心も起るのです。 尊い阿弥陀仏の本願があるからといって、 わざとしてはならないことをし、 思ってはならないことを思うような人は、 まったくこの迷いの世界を厭うことがなく、 この身の悪を知らないので、 念仏しようという思いもなく、 本願を信ずる心もないのです。 たとえ念仏をしておられても、 そのようなお心では、 この世の命を終えて浄土に往生することはきっと難しいことでしょう。 これらのことを他の人々にも十分にお聞かせいただきたいと思います。 今さら申しあげるまでもないのでしょうが、 何かにつけてこうしたことを気にかけておられる方々ですから、 このように申しあげるのです。 近頃いわれている念仏の教えはさまざまに変ってきているようですので、 それらについてあれこれと申しあげることはできませんが、 亡き法然上人の教えを深く心得ておられる方々は、 今でも上人ご在世のころと同じままで少しも変っておられません。 このことは世間に知れわたっていることですので、 お聞きになっておられることでしょう。 浄土の真実の教えとはまったく異なったことを互いにいいあっておられる人々も、 もとは上人のお弟子でありましたが、 さまざまに教えをいい換えたりして、 自らも迷い、 他の人をも迷わせているようです。 嘆かわしいことです。 この京都でも多くの人々が迷っておられるようです。 まして地方ではなおさらであろうかと思いますが、 あえて知りたいとも思いません。 何につきましても十分に申しあげることはできません。 またの機会に申しあげましょう。

(5)
善知識をおろそかにし師を謗るものを、 謗法のものというのです。 また、 親を謗るものを五逆のものというのです。 このような人とは同席してはならないといわれています。 ですから、 北の郡にいた善証房は、 親をののしり、 わたしをさまざまに謗っていましたので、 親しく接しようという思いはなく、 近づけないでいました。 明法房の往生のことを聞きながら、 その遺志をおろそかにするような人々は、 念仏の仲間ではないはずです。 みなさんは無明の酒に酔っている人に、 ますます酒を勧め、 三毒の煩悩を久しく好んで口にしている人に、 ますます毒を飲めとそそのかしあっているようですが、 何とも心の痛むことです。 無明の酒に酔っていることを楽しみ、 三毒を好んで口にして、 毒も消え去らず、 無明の酔いも醒めきらないままでいるのです。 十分にお心得ください。

(6)
笠間の念仏者が疑問に思いお尋ねになったことについて。
浄土真宗の教えでは、 往生を願うものについて他力のものと自力のものとがあります。 このことはすでにインドの菩薩がたをはじめ、 中国や日本の浄土の祖師がたが仰せになっていることです。
まず自力ということは、 行者がそれぞれの縁にしたがって、 阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、 あるいは念仏以外の善を修めて、 自身をたのみとし、 自らのはからいの心で、 身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、 立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。 また他力ということは、 阿弥陀仏の四十八願の中で、 真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。 それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、 「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」 と、 法然上人は仰せになりました。 「義」 というのは、 はからうという言葉です。 行者のはからいは自力ですから、 「義」 というのです。 他力とは、 本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、 まったく 「義」 はないというのです。
ですから、 この身が悪いから、 阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。 凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、 自分は悪いものであると知るべきです。 また、 自らの心が善いから、 往生することができるはずだと思ってはなりません。 自力のはからいでは、 真実の浄土に生れることはできないのです。 「行者がそれぞれに起す自力の信心では、 懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土にしか往生できないであろう」 と、 お聞きしました。 第十八願を成就したことにより阿弥陀仏となられ、 思いはかることのできない利益がきわまりないというそのおすがたを、 天親菩薩は尽十方無礙光如来と表されています。 ですから、 善人や悪人を区別することなく、 煩悩に汚れた心を分け隔てすることなく、 必ず往生すると知らなければなりません。 そこで、 源信和尚は往生要集に、 本願の念仏を疑いなく信じるすがたをあらわして、 「歩いていても、 立っていても、 座っていても、 臥していても、 どのような時、 どのようなところでも、 分け隔てることがない」 と仰せになっており、 「真実の信心を得た人は、 摂取の光明の中に摂め取られているのである」 と明らかに示されています。 ですから、 「無明煩悩をそなえたままで、 安養浄土に往生すれば、 必ずただちにこの上ない仏のさとりに至る」 と釈尊は説かれています。
ところで、 「さまざまな濁りと悪に満ちた世界に生きるわたしたちは、 釈尊お一人の言葉では信じることができないであろうから、 すべての世界の数限りない仏がたが証人になってくださるのである」 と、 善導大師は 観経疏に示されています。 「釈尊や阿弥陀仏やすべての世界の仏がたは、 みな同じお心で、 本願を信じて念仏するものに、 影がその姿に付き添うように離れないでいてくださる」 と明らかにされているのです。 ですから、 この信心を得た人を釈尊は、 「わが親しい友である」 とよろこんでおられます。 この信心を得た人を真の仏弟子というのであり、 本願を疑いなく信じる人とするのです。 また、 すぐれた人、 すばらしい人、 美しい人、 もっともすぐれた人、 たぐいまれな人ともいうのです。 この人は、 正定聚の位に定まっていると知らなければなりません。 ですから、 弥勒菩薩と等しい人と説かれるのです。 真実の信心を得たことにより、 必ず真実の浄土に往生するのであると知らなければなりません。
この信心を得ることは、 釈尊や阿弥陀仏やすべての世界の仏がたの巧みな手だてによるのであると知らなければなりません。 ですから、 「他の仏がたの教えを謗ってはならない。 念仏以外の善を修める人を謗ってはならない。 念仏する人を憎み謗る人であっても、 その人を憎み謗ることがあってはならない。 哀れみいとおしむ心を持ちなさい」 と、 法然上人は仰せになりました。 謹んで申しあげます。
仏のご恩の深いことは、 懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、 阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。 そのはたらきがあるからこそ、 思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。 仏のご恩の深いことは、 限りがありません。 まして他力の信心を得たものは、 真実の浄土に往生し、 大いなる仏のさとりを開かせていただくのですから、 仏のご恩をよくお考えになってください。 これらのことは決して性信房や親鸞が自分勝手な考えから申しあげていることではありません。 くれぐれもお疑いのないように。
建長七年十月三日
愚禿親鸞八十三歳、 これを書く。

(7)
四月七日付のお手紙、 五月二十六日に確かに読みました。 さて、 仰せになっていることについて、 信の一念と行の一念とは言葉は二つでありますが、 信を離れた行もありませんし、 行の一念を離れた信の一念もありません。 なぜなら、 行というのは、 本願に誓われている名号を一声称えて浄土に往生するということを聞いて、 一声でも称え、 あるいは十声でも称えることをいうのであり、 この本願を聞いて、 疑う心が少しもないことを信の一念というのです。 ですから信と行とは二つではありますが、 名号を一声称えて往生すると聞いて疑う心がないので、 行を離れた信はないとうかがっています。 また、 信を離れた行もないとお考えください。
これらはみな阿弥陀仏の誓いであるということを心得なければなりません。 行と信とは、 本願のはたらきをいうのです。 謹んで申しあげます。
命がありましたら、 どうか必ず京都にお越しになってください。
五月二十八日
覚信房へのお返事
専信房が京都の近くに移り住まわれたことは、 心強く思います。 また、 お志の銭三百文を確かに謹んでいただきました。
「建長八年五月二十八日 親鸞聖人からのお返事」

(8)
お手紙に書かれていることを詳しく読みました。 どうやら慈信の教えのせいで、 常陸の国や下野の国の人々の念仏されている様子が、 これまでお聞きしていたものとはすっかり変ってしまったと聞いています。 何とも情なく、 嘆かわしく思います。 これまで、 往生は間違いないといっていた人々が、 慈信と同じようにみな嘘いつわりをいっていたとは、 深く信頼しておりましたのに、 何とも嘆かわしく思います。
なぜなら、 浄土往生を願う信心というのは、 ほんの少しも本願を疑う心のないことであって、 これこそが往生は間違いないということであると思うからです。 善導大師は信心について、 「真実の信心が定まった後には、 仮に阿弥陀仏のような仏や釈尊のような仏が空中に満ちわたって、 釈尊の教えも阿弥陀仏の本願もまちがいであるといわれたとしても、 ほんの少しも疑うことなどあってはならない」 と教えてくださいました。 このようにお聞きしていますので、 その通りにこれまでお伝えしてきましたのに、 慈信のようなものがいうことにそそのかされて、 常陸の国や下野の国の念仏者がみな動揺してしまい、 ついには、 あれほどまでに確かな証拠となる文を力を尽くして数多く書き写してお送りしましたのに、 それをすべてお捨てになっておられるとお聞きしますのは、 何とも申しあげようがありません。
そもそも、 慈信がいっている教えについて、 わたしはそのような言葉さえ聞いたことがありません。 ましてそのような教えは習ったこともないのですから、 慈信にひそかに教えるようなことがあるはずがありません。 また夜であっても昼であっても、 慈信一人に、 人には隠して教えを伝えたこともありません。 もしこのようなことを慈信に伝えながら、 嘘までついて隠し、 人には知らせずにひそかに教えたことがあるのなら、 仏・法・僧の三宝を根本として、 三界の神々や四海の八部衆や閻魔王界のすべての神々の罰を、 親鸞はこの身にことごとく受けることになるでしょう。
これより以後は、 慈信については親子の関係を断ち切ります。 世間のことでも、 考えられないような嘘いつわりやとても言葉にできないことなどをいいふらしていますので、 仏法のことだけではなく、 世間のことについても恐ろしいまでのうわさが数限りなくあります。 特に、 この慈信の教えを聞きましたが、 思いもよらない内容です。 親鸞にとっては、 まったく聞いたことも習ったこともないものです。 何とも嘆かわしく、 情ないことです。 阿弥陀仏の本願を捨ててしまっている慈信に、 人々がしたがって、 親鸞まで嘘いつわりを説いたものにしています。 情なく、 嘆かわしいことです。
恐らく、 唯信鈔・自力他力事・後世物語聞書・一念多念分別事・唯信鈔文意・一念多念文意などの書物をご覧になりながら、 慈信の教えによって、 多くの念仏者は阿弥陀仏の本願を捨てているようですが、 何ともいいようがないので、 これらの書物について、 今後はお話になってはいけません。
また、 性信房のお書きになった 真宗の聞書は、 わたしのいっていることと少しも異なってはいませんので、 うれしく思います。 この 真宗の聞書は、 こちらに置いておきます。
また、 哀愍房などという人には会ったこともありません。 手紙を一度も差し出したことはありませんし、 あちらからもらったこともありません。 親鸞から手紙をもらったといっているそうですが、 とんでもないことです。 この 唯信鈔に書いてあることは、 ひどい内容ですから、 燃やしてしまいます。 何とも情ないことです。 この手紙を他の人々にもお見せになってください。 謹んで申しあげます。
五月二十九日
親鸞
性信房へのお返事
なお、 そちらの念仏者が信心は間違いなく定まったといっていたのは、 まったくもって嘘いつわりでした。 このように第十八願を捨てている人々の言葉を信頼して、 これまで過してきたとは、 情ないことです。 この手紙は隠す必要のないものですから、 どうぞ他の人々にもお見せになってください。

(9)
仰せになっていることを詳しく聞きました。 何より哀愍房とかいう人が、 京都のわたしから手紙をもらったなどといっているようですが、 何とも考えられないことです。 会ったこともなく、 一度も手紙をいただいたことはありませんし、 わたしから差し出したこともないのに、 京都から手紙をもらったといっているとは、 あきれたことです。
また、 あなたがいっている教えについて、 そのような言葉さえ聞いたことがなく、 知らないことです。 それをあなた一人に夜中にわたしが教えたと人にいっているとのことですが、 そのためこのわたしについても、 常陸の国や下野の国の人々はみな親鸞が嘘いつわりをいったなどと互いにいいあっているようです。 こうなってはもはや親子の関係を続けるわけにはいきません。
また、 母の尼についても考えられないような嘘いつわりをいいふらしたのは、 とても言葉にできないほど嘆かわしいことです。 壬生の女房がこちらに来て、 慈信房がくださったといって持ってきた手紙をここに置いていったようです。 その手紙がここにあります。 これは、 まさしくあなたの書いたものですから、 そこに親鸞が継母にいい惑わされていると書かれていることは、 本当に嘆かわしいことです。 今も健在であるのに、 継母の尼がいい惑わしているということは、 とんでもない嘘いつわりです。 また、 この世でどのようにして過しているのかも知らないのに、 壬生の女房のもとへも手紙を差し出して、 思いも及ばないほどの嘘いつわりをいっているのは、 情ないことであると嘆いています。
本当に、 このような嘘いつわりをいって、 六波羅探題や鎌倉幕府などに申し立てたのは、 情ないことです。 この程度の嘘いつわりは、 この世のことですから、 よくあることでしょう。 だからといって、 嘘いつわりをいうことは心が痛むものです。 まして、 極楽浄土への往生というもっとも大切なことについて、 常陸の国や下野の国の念仏者を惑わし、 親にありもしない嘘いつわりをいったことは、 情ないことです。
阿弥陀仏の第十八願をしぼんだ花にたとえたことで、 人々はみな本願を捨ててしまったと聞いていますが、 これはまさに謗法の罪であり、 また、 五逆の罪を進んで犯し、 人をおとしめ惑わしていることは、 悲しいことです。
特に教団の和を乱す罪は、 五逆の一つです。 そして、 親鸞にありもしない嘘いつわりをいったことは、 父を殺すという罪になります。 これも五逆の一つです。 伝え聞いたこれらのことは、 とても言葉にすることができないほど嘆かわしいことです。 こうなっては、 もはやわたしは親ではありません。 あなたが子であるという思いも断ち切りました。 仏・法・僧の三宝と神々に、 はっきりと申しあげました。 悲しいことです。 わたしの教えとは異なっているといって、 常陸の国の念仏者をみな進んで惑わそうとしていると聞くのは情ないことです。 親鸞が、 常陸の国の念仏者をおとしめるように慈信房に指示しているといううわさが鎌倉にまで広まっているということですが、 何とも嘆かわしいことです。
五月二十九日
慈信房へのお返事
同六月二十七日、 届く。
建長八年六月二十七日、 これを記す。
嘉元三年七月二十七日、 これを書き写す。

(10)
また五説というのは、 さまざまな経典が説かれていても、 それはすべて次の五種に収まるということです。 一つには仏の説、 二つには仏弟子の説、 三つには神々や選任の説、 四つには鬼神の説、 五つには変化の説をいいます。 この五種の中では仏の説を用い、 他の四種を拠りどころにしてはなりません。 この浄土三部経は、 釈尊が自らお説きになったものであると知らなければなりません。 四土というのは、 一つには法身の世界、 二つには報身の世界、 三つには応身の世界、 四つには化身の世界のことで、 この安楽浄土は報身の世界です。 三身というのは、 一つには法身、 二つには報身、 三つには応身のことで、 この阿弥陀如来は報身です。 三宝というのは、 一つには仏宝、 二つには法宝、 三つには僧宝のことで、 この浄土の教えは仏宝です。 四乗というのは、 一つには仏乗、 二つには菩薩乗、 三つには縁覚乗、 四つには声聞乗のことで、 この浄土の教えは菩薩乗です。 二教というのは、 一つには頓教、 二つには漸教のことで、 この浄土の教えは頓教です。 二蔵というのは、 一つには菩薩蔵、 二つには声聞蔵のことで、 この浄土の教えは菩薩蔵です。 二道というのは、 一つには難行道、 二つには易行道のことで、 この浄土の教えは易行道です。 二行というのは、 一つには正行、 二つには雑行のことで、 この浄土の教えは正行を根本とするのです。 二超というのは、 一つには竪超、 二つには横超のことで、 この浄土の教えは横超であり、 竪超とは聖道門の自力の教えです。 二縁というのは、 一つには無縁、 二つには有縁のことで、 この浄土の教えは有縁の教えです。 二住というのは、 一つには止住、 二つには不住のことで、 止住とは、 この浄土の教えは仏法が滅びた後もいつまでもとどまり、 あらゆるものをお救いになるというのです。 不住とは、 さまざまな善を修める聖道門の教えのことで、 これらの教えはみな竜宮に隠れてしまうのです。 思議・不思議ということについて、 思議とは八万四千のさまざまな善を修める聖道門の教えのことです。 不思議とは浄土の教えであり、 思いはかることのできないすぐれた教えのことです。
これらについて一通りのことを記しておきました。 よく知っている人にお尋ねください。 また、 詳しいことはこの手紙で申しあげることもできません。 年老いて目も見えなくなってきました。 何についても忘れがちになり、 また人にはっきりと説き示すことができるような身でもありません。 浄土の教えを学んだ人によくお尋ねになってください。 謹んで申しあげます。
閏三月三日
親鸞

(11)
信心を得た人は、 間違いなく正定聚の位に定まっているので、 等正覚の位にあるともいうのです。 無量寿経には、 阿弥陀仏の摂め取ってお捨てにならないという利益を得ているものを正定聚と名づけ、 これを如来会には等正覚と説かれています。 その言葉こそ異なっていますが、 正定聚と等正覚とは同じ意味であり、 同じ位のことです。 等正覚という位は、 一生補処の弥勒菩薩と同じ位なのです。 信心を得た人は弥勒菩薩と同じように、 次の世でこの上ないさとりに至ることが定まっているので、 「弥勒におなじ」 と説かれています。
さて、 無量寿経には、 「次如弥勒 (次いで弥勒のごとし)」 と説かれています。 弥勒菩薩はすでに仏に近い位におられるので、 さまざまな教えの中で弥勒仏といわれています。 ですから、 弥勒菩薩と同じ位にあるので、 正定聚の位に定まった人を 「如来とひとし」 ともいうのです。 真実信心を得た人は、 その身こそ煩悩に汚れ悪を犯す嘆かわしい身であるけれども、 その心はすでに如来と等しいので、 「如来とひとし」 ということできると知ってください。 弥勒菩薩は、 心がすでに間違いなくこの上ないさとりの境地に定まっておられるので、 竜華三会のときにさとりを開くというのです。 浄土の真実の教えを聞く人は、 このことをよく心得なければなりません。
善導大師は 般舟讃に、 「信心のひとは、 その心すでにつねに浄土に居す」 といわれています。 「居す」 というのは、 信心を得た人の心が常に浄土にあるという意味です。 これは 「弥勒とおなじ」 ということについていわれているのです。 等正覚という位が 「弥勒とおなじ」 といわれるのですから、 信心を得た人は 「如来とひとし」 ということなのです。
正嘉元年十月十日
親鸞
性信房へ

(12)
これは経典の文です。 華厳経に、 「信心歓喜者与如来等」 と説かれているのは、 「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」 ということです。 「もろもろの如来とひとし」 というのは、 信心を得てことのほかよろこぶ人のことを、 釈尊のお言葉に、 「仏を仰いで信じて大いによろこぶものこそ、 わたしのまことの善き友である」 と仰せになっています。 また、 阿弥陀仏は第十七願に、 「すべての世界の数限りない仏がたが、 みなほめたたえて、 わたしの名号を称えないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」 とお誓いになっています。 この願が成就したことを示す文には、 「信心を得た人をあらゆる仏がたはほめたたえられ、 およろこびになるのである」 と説かれています。
これらは、 「如来とひとし」 ということについて示された文をいくつか書き記したものです。 ほんの少しも疑ってはなりません。
正嘉元年十月十日
親鸞
真仏房へ

(13)
謹んで申しあげます。
無量寿経に 「信心歓喜」 と説かれています。 浄土和讃にも、 華厳経の教えによって、
信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり
信心を得てよろこぶ人は如来と等しいと説かれている。 大いなる信心は仏性である。 仏性はすなわち如来である。
と仰せになっています。 ところが、 同じ念仏の道を歩む人の中に、 誤って理解しているのでしょうか、 「念仏の仲間の内で信心を得てよろこぶ人は如来と等しいといっているのは、 自力であり、 真言宗の教えにかたよっている」 という人がいるようです。 その人がどんな意味でいっているのかわかりませんが、 一言申しあげます。
また、
真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度をさとらしむ
真実の信心を得る人は、 たちどころに正定聚に入る。 その人は不退転の位に定まっているので、 必ずさとりを開かせていただくのである。
とあります。 「滅度をさとらしむ」 とありますのは、 この世の命を終えるとき、 真実の信心を得ている行者の心は、 真実の浄土に至ったなら、 そこで阿弥陀仏の限りない命に支えられ、 限りない光明のはたらきにつつまれることにより、 如来のさとりの光と一つになるのです。 ですから、 「大信心は仏性なり、 仏性すなはち如来なり」 と仰せになっているのでしょうか。 これは、 阿弥陀仏が第十一願・第十二願・第十三願にお誓いになっていることであろうと心得ています。 罪深いわたしたちのために、 大いなる慈悲のお心からおこしてくださった尊くありがたい本願があるうれしさは、 心にも思うことができず、 言葉にも表し尽すことができません。 はかり知ることのできない遠い昔から、 世にお出ましになった数限りない仏がたのもとで、 さとりを求める心を起しても、 自力ではどうしようもありませんでした。 ところが、 釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれ、 今では本願を疑い自力でさまざまな行を修めようとする思いはありません。 すべてのものを摂め取ってお捨てにならないという無礙光如来の慈悲のはたらきにより、 疑いなく信じよろこんで、 たとえ一声の念仏であっても浄土に往生することが定まり、 それが阿弥陀仏の誓願の不可思議なはたらきによるのであると心得たからには、 どれだけ聞いてもどれだけ見ても飽きることのない浄土の教えが説かれた聖教も、 善知識にお会いしたいと思うことも、 摂め取ってお捨てにならないというはたらきも、 信心も、 念仏も、 すべて人のためであったとありがたく思われるのです。
今、 私心を差しはさむことなく、 祖師がたのおこころをうかがいましたので、 阿弥陀仏の本願のこころを知り、 すみやかにさとりに至る道を得て、 真実の浄土に生れていくのです。 そして、 阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信心を得、 一声の念仏を称えることも、 この上ないよろこびであり、 祖師がたのご恩に他なりません。 これらのことは 弥陀経義集に明らかにされていたと思います。 ところが、 世間のあわただしさにまぎれて、 ついつい念仏するのをおこたります。 それでも昼も夜も忘れることなく、 阿弥陀仏の慈悲のうちにあることをよろこぶのは、 本願のはたらきに他ならないのです。 いついかなるときでも、 不浄とされる時や所を嫌ったりすることがなく、 ただ金剛の信心を得ているだけで、 ひたすら仏のご恩の深さや師の恩徳のありがたさへの感謝のうちに、 名号を称えるばかりであって、 念仏をことさら日課とすることはありません。 このような考えは間違いでしょうか。 この生涯でこれ以上大切なことはありません。 よろしければ、 詳しくお教えをいただきたいと思って、 少しばかり思うところを記して申しあげます。
ところで、 京都に長い間滞在しておりましたのに、 あわただしいばかりで、 落ち着いて過せなかったことが悔やまれてなりませんので、 何とかして京都に行き、 せめて五日間でも、 落ち着いておそばにいたいと願っております。 ああ、 ここまで申しますのも、 まことにご恩によるのです。
親鸞聖人のもとへお手紙をお送りいたします。 蓮位房、 お取り次ぎください。
十月十日
慶信
追って申しあげます。
念仏しておられる人々の中には、 「南無阿弥陀仏」 と称えながら、 「帰命尽十方無礙光如来」 とも称えている人がおられます。 これを聞いて、 ある人が、 「南無阿弥陀仏と称え、 さらに帰命尽十方無礙光如来と称えるのは、 つつしむべきことであり、 わざとらしいことである」 といっているようですが、 このような考えはどうなのでしょうか。

「南無阿弥陀仏」 と称え、 さらに 「帰命尽十方無礙光如来」 と称えるのは悪いというようなことは、 とんでもない誤った考えであろうと思います。 「帰命」 とは 「南無」 のことです。 「無礙光仏」 とは光明のことであり、 智慧のことです。 この智慧は、 すなわち 「阿弥陀仏」 そのものなのです。 人々は阿弥陀仏のおすがたを知らないので、 そのおすがたをはっきり知らせようとして、 天親菩薩は力を尽して、 「帰命尽十方無礙光如来」 と表されたのです。 その他のことは、 あなたのお手紙の言葉を少しばかり書き直してお送りします。

あなたのお手紙の内容を、 詳しく親鸞聖人に申しあげましたところ、 大体この通りで間違いはないとのことでした。 ただし、 「一声の念仏で浄土に往生することが定まり、 それが阿弥陀仏の誓願の不可思議なはたらきによるのであると心得ます」 とお書きになっているところを、 「一見、 良いように見えますが、 一声の念仏にとどまっているところが悪い」 ということで、 その言葉の横に、 聖人が自筆で書き直していらっしゃいます。 わたしに 「このように書き入れなさい」 と仰せになったのですが、 自筆は何よりも確かな証拠であるとお思いになるでしょうから、 そのとき咳に悩まされておられましたが、 聖人自らお書きくださるように申しあげたのです。
また京都に来られた人々から、 関東で弥勒と等しいということについて議論されていると聞きました。 それについて聖人がお書きになったお手紙がありますので、 書き写してお送りします。 ご覧になってください。
また、 弥勒と等しいということについて、 弥勒は等覚の位にあり、 因位の菩薩です。 これは十四日や十五日の月は欠けることなく満ちていますが、 八日や九日の月はまだ満ちていないようなものです。 月が満ちていくのは、 自力で行を修め功徳を積んでいくことをたとえています。 わたしたちは信心が定まった凡夫であり、 その位は正定聚にあるのです。 すなわち因位にあって、 等覚の位にあるのです。 弥勒菩薩は自力であり、 わたしたちは他力によるのです。 自力と他力の違いこそありますが、 因位において等覚の位にあるということでは等しいというのです。 また、 弥勒菩薩が等覚のさとりを開くのは遅く、 わたしたちが滅度に至るのは間違いなく速いのです。 弥勒菩薩は五十六億七千万年後の明け方を待ち、 わたしたちは竹の内側の薄い膜を隔てるくらいのわずかな時を待つばかりです。 さとりを開くのが遅いか速いかでいえば、 弥勒菩薩も速いのですが、 わたしたちは速い中でもっとも速いのです。 滅度というのは妙覚のことです。 曇鸞大師は 往生論註に、 「好堅樹という木がある。 この木は地面の下で百年間とどまっているが、 地上に出てからは一日に百丈伸びる」 といわれています。 この木が地面の下で百年間とどまっているというのは、 わたしたちが娑婆世界にいて、 正定聚の位にあることをいい、 一日に百丈伸びるというのは、 わたしたちが滅度に至ることをいいます。 このようにたとえられているのです。 これが他力ということです。 松の木は一年に何寸も生長することはありません。 松の木の成長は遅く、 これは自力で行を修めて功徳を積んでいくことをたとえています。
また、 如来と等しいということについて、 あらゆる煩悩をそなえた凡夫は、 阿弥陀仏の光明に照らされて、 信心を得てよろこぶ心がおこるのです。 信心を得てよろこぶ心がおこるので、 正定聚の位に定まっているのです。 信心というのは智慧です。 この智慧は、 他力の光明に摂め取られたことにより得る智慧なのです。 阿弥陀仏の光明も智慧です。 ですから同じというのです。 同じというのは、 信心を得ることで如来と等しいというのです。 歓喜地というのは、 信心を得てよろこぶ心がおこる位のことです。 信心を得てよろこぶ心がおこるのですから、 同じというのです。
聖人がご自筆で詳しくお書きになったものを書き写しました。
また、 「南無阿弥陀仏」 と称えたり、 「帰命尽十方無礙光如来」 と称えたりすることについての疑問にも、 聖人はご自筆で詳しくあなたのお手紙の余白にお書きになっています。 ですから、 あなたのお手紙を一緒にお送りします。 「阿弥陀」 といったり、 「無礙光」 といったり、 言葉は異なっていますが、 その意味は同じです。 「阿弥陀」 というのは梵語すなわちインドの言葉です。 漢語では 「無量寿」 ともいい、 「無礙光」 ともいいます。 梵語と漢語の違いはありますが、 その意味は同じです。
思えば覚信房のことは、 本当に悲しく、 また尊いことであると思います。 尊いというのは、 信心が変ることなくお亡くなりになったからです。 またその時、 たびたび信心についてどのように心得ているのか尋ねましたところ、 まったく変ることもなく、 ますます信心が確かであるということでした。 京都に着いた時、 覚信房は、 「関東を出発して一日市というところで病気になりました。 同行した仲間は帰るようにいいましたが、 死ぬほどの重い病気なら、 帰っても死に、 ここにとどまっても死ぬでしょう。 また、 病気が治るのなら、 帰っても治り、 ここにとどまっても治るでしょう。 どうせ同じことであれば、 命を終えるのなら聖人のもとで終えたいものと思ってやって来ました」 とお話しになりました。 このような覚信房の信心は本当に尊く思います。 善導大師の観経疏に説かれている二河の譬えに思い合されて、 本当に尊くうらやましいことです。 臨終の時には、 「南無阿弥陀仏、 南無無礙光如来、 南無不可思議光如来」 と称えて、 手を合せて静かに命を終えられました。 また、 後になったり先になったりして死に別れることは、 悲しく嘆かわしいとお思いになるでしょうが、 先立って浄土のさとりを開くと、 必ず誓いを起して、 はじめに縁のあるものや親族のものや親しい友を浄土に導くのですから、 そのような覚信房と同じ教えの仲間ですので、 わたしもたのもしく思います。 また、 親となり子となるのも過去の世からの因縁であるといいますから、 あなたもたのもしくお思いにならなければなりません。 このありがたさや尊さは、 言葉でいい尽すことができませんので、 ここまでにしておきます。 これ以上どうすればわたしからこのことを申しあげることができるでしょうか。 詳しくはまた申しあげようと思っています。 この手紙の内容に間違いがあるかもしれないと思い、 聖人の前で読みあげましたところ、 「これで十分です。 申し分ありません」 というお言葉をいただきました。 特に覚信房のところでは、 涙を流していらっしゃいました。 本当に深く悲しんでおられました。
十月二十九日
蓮位
慶信房へ

(14)
自然法爾ということについて。
「自然」 ということについて、 「自」 は 「おのずから」 ということであり、 念仏の行者のはからいによるのではないということです。 「然」 は 「そのようにあらしめる」 という言葉です。 「そのようにあらしめる」 というのは、 行者のはからいによるのではなく、 阿弥陀仏の本願によるのですから、 それを 「法爾」 というのです。 「法爾」 というのは、 阿弥陀仏の本願によってそのようにあらしめることを 「法爾」 というのです。 「法爾」 は、 このような阿弥陀仏の本願のはたらきですから、 そこには行者のはからいはまったくないということです。 これは 「法の徳」 すなわち本願のはたらきにより、 そのようにあらしめるということなのです。 人がことさらに思いはからうことはまったくないのです。 ですから、 「自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」 と知らなければならないというのです。 「自然」 というのは、 もとよりそのようにあらしめるという言葉です。
阿弥陀仏の本願は、 もとより行者のはからいではなく、 南無阿弥陀仏と信じさせ、 浄土に迎えようとはたらいてくださっているのですから、 行者が善いとか悪いとか思いはからわないのを、 「自然」 というのであると聞いています。
阿弥陀仏の本願は、 すべてのものを 「無上仏にならせよう」 とお誓いになっています。 「無上仏」 というのは、 かたちを超えたこの上ないさとりそのものをいうのです。 かたちを離れているから、 「自然」 というのです。 かたちがあると示すときには、 この上ないさとりとはいいません。 かたちを離れたこの上ないさとりを知らせようとして示されたすがたを、 阿弥陀仏というのであると聞いています。 阿弥陀仏とは、 「自然」 ということを知らせようとするはたらきそのものなのです。 この道理を心得た後には、 「自然」 についてあれこれと思いはからってはなりません。 常に 「自然」 について思いはからうなら、 「自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」 といったところで、 それははからっていることになるのです。 これは、 思いはかることのできない仏の智慧のはたらきそのものなのです。
正嘉二年十二月二十四日
愚禿親鸞 八十六歳

(15)
閏十月一日付のお手紙、 確かに読みました。 覚然房のことは、 あれこれと思われて言葉もありません。 きっと親鸞が先立つであろうと、 その時を待っておりましたのに、 覚然房が先立たれましたことは、 何ともいいようがありません。 覚信房も先年亡くなりましたが、 きっと間違いなく先に浄土でお待ちになっていることでしょう。 みな必ず浄土に往生させていただくのですから、 何も申しあげることはありません。 客年房が仰せになっていたことは、 この親鸞の思いと少しも異なるものではありませんから、 必ず同じ浄土に往生することができるのです。 来年の十月頃まで生きておりましたら、 きっとこの世でお会いすることもあるでしょう。 あなたのお心もわたしと少しも異なるものではありませんから、 先立って往生してもあなたを浄土でお待ちしております。 みなさんのお志を、 確かにいただきました。 いろいろなことについて、 命のある限りはお伝えしようと思います。 また、 そちらからもお便りをいただきたいと思います。 この度のお手紙を読ませていただいたことは、 本当にうれしいことです。 どれだけ申しあげても到底いい尽すことができません。 また追って申しあげようと思います。 謹んで申しあげます。
閏十月二十九日
親鸞
高田の入道殿へのお返事

(16)
何よりも、 去年から今年に欠けて、 老若男女を問わず多くの人々が亡くなったことは、 本当に悲しいことです。 けれども、 命あるものは必ず死ぬという無常の道理は、 すでに釈尊が詳しくお説きになっているのですから、 驚かれるようなことではありません。 わたし自身としては、 どのような臨終を迎えようともその善し悪しは問題になりません。 信心が定まった人は、 本願を疑う心がないので正定聚の位に定まっているのです。 だからこそ愚かで智慧のないわたしたちであっても尊い臨終を迎えるのです。 あなたが人々におっしゃった、 すべて阿弥陀仏のはたらきによって浄土に往生するということは、 少しも間違っていません。 長年の間、 わたしがみなさんにいってきたことと、 異なっていません。 決して学者ぶった議論などなさらずに、 浄土への往生を遂げてください。
今は亡き法然上人が、 「浄土の教えを仰ぐ人は、 わが身の愚かさに気づいて往生するのである」 と仰せになっていたのを確かにお聞きしましたし、 何もわからない無知な人々が来るのをご覧になっては、 「間違いなく往生するであろう」 とほほえまれていたのを拝見しました。 また、 学者ぶった議論をして、 いかにも賢そうに振舞っている人が来たときは、 「あの人の往生はどうであろうか」 と仰せになっていたのも確かにお聞きしました。 今でもそのことが思いおこされます。 人々に惑わされることなく、 信心が揺らぐことのないようにして、 みな往生しなければなりません。 ただ、 人に惑わされることがなくても、 信心が定まらない人は正定聚の位に定まっていないのであり、 心の落ち着きどころがない人なのです。
あなたに申しあげたこの手紙の内容を、 他の人々にもお伝えください。 謹んで申しあげます。
文応元年十一月十三日
善信八十八歳
乗信房へ

(17)
さて、 念仏をめぐるさまざまな問題によって、 大変困っておられるとお聞きしました。 何とも心の痛むことです。 結局、 その土地で念仏の縁が尽きてしまったのでしょう。 念仏をさまたげられるなどということについて、 あれこれと嘆くようなことはありません。 念仏をさまたげようとする人は、 どのようになってしまかわかりませんが、 念仏しておられる人は、 難の心配があるでしょうか。 世間の人々に取り入って、 念仏の教えを広めようと企てるようなことは、 決してあってはなりません。 その土地に念仏の教えが広まることも、 すべて仏のはたらきによるのです。
慈信房があれこれといったことによって、 人々の心もさまざまに惑わされてしまったとお聞きしています。 何とも心の痛むことです。 すべて仏のはたらきにおまかせしなければなりません。 その土地での縁が尽きてしまったなら、 どこへでも縁のあるところに移ることをお考えになるのがよいでしょう。 慈信房のいうことを信じて、 世間の有力者に取り入って念仏の教えを広めるようになどと、 わたしの方からいったことは決してありません。 とんでもない間違いです。 末法の世で念仏をさまたげるようなことがおこるのは、 あらかじめ釈尊がお説きになっていることであり、 驚かれるようなことではありません。 慈信房がさまざまにいったことを、 わたしがいったことであるとお考えになるようなことは、 決してあってはなりません。 念仏の教えについても、 まったく異なった内容に変えて説いているようです。 聞き入れてはなりません。 とんでもない嘘いつわりなどがうわさになって聞えてきます。 実に嘆かわしいことです。
入信房などについても心の痛むことです。 鎌倉に長い間滞在しておられるようで、 気の毒に思います。 今はどうにもならない事情があって、 そのようなことになっているのでしょう。 わたしにはどうすることもできません。
奥群の人々が、 慈信房にだまされて、 みな信心が定まらず動揺しておられるということは、 何とも情なく悲しいことです。 わたしが人々をだましているといううわさが聞えてくるのも、 本当に嘆かわしく思います。 それも日頃から人々の信心が定まっていなかったことのあらわれであると思います。 何とも心の痛むことです。
慈信房がいったことによって、 日頃から得ていたはずの信心が揺らいでおられるのも、 結局、 その人々の信心が真実ではなかったことのあらわれなのです。 これが明らかになったことはよいことです。 慈信房がいったことを、 わたしのいったことのように人々がお考えになっているのは、 本当に嘆かわしいことです。
日頃からさまざまな書物などを書き写して持っておられた甲斐もないように思います。 唯信鈔などの書物は、 今では意味のないものになったのでしょう。 丁寧に書き写して持っておられた聖教の言葉は、 みな無意味なものになってしまいました。 みな慈信房のいうことにしたがって、 尊い書物などをお捨てになってしまったとお聞きしますのは、 どうしようもなく悲しいことです。 十分に唯信鈔や後世物語聞書¼ などをご覧になってください。 長年の間、 人々が信心を得ているとおっしゃっていたのは、 みな嘘いつわりであったとわかりました。 本当に嘆かわしいことです。 何につきましても、 またの機会に申しあげましょう。
一月九日
親鸞
真浄房へ

(18)
何よりも、 阿弥陀仏の本願の教えが広まっていることは、 本当に尊くうれしいことです。 そうした中で、 あちこちで勝手に、 自分の意見こそが正しいと思っていい争うのは、 決してあってはならないことです。 京都でも、 一念で往生が定まるとか多念で往生が定まるとかいう争いが多くあるようですが、 そのようなことは決してあってはなりません。 結局のところ、 唯信鈔や後世物語聞書や自力他力事などの書物を十分ご覧になって、 その内容と異なることがあってはならないということです。 どこの人々にも、 このことをお伝えください。 それでもはっきりわからないことがありましたら、 わたしはこうして健在でいますので、 面倒でもこちらにお越しになってください。 あるいはお手紙ででもお尋ねになってください。 鹿島や行方やその近くの人々にも、 このことを十分にお伝えください。 一念や多念の争いなどのように、 意味のない議論ばかりをしておられるようですが、 それはくれぐれも気をつけなければならないことです。 謹んで申しあげます。
これらのことを心得ていない人々は、 無意味なことをいい争っているのです。 くれぐれもお気をつけください。
二月三日
親鸞

(19)
諸仏称名の願ともいわれ、 諸仏咨嗟の願ともいわれる第十七願は、 あらゆる世界の命あるものに南無阿弥陀仏の名号を勧めるための誓願であるとお聞きしています。 また、 これらのものが本願を疑う心を押しとどめるためであるとお聞きしています。 それは阿弥陀経に、 すべての世界の仏がたが念仏の法を真実であると証明しておられると説かれていることからわかります。 つきつめていえば、 阿弥陀仏がわたしたちをさとりへ導くための誓願であると信じているのです。 ですから、 念仏往生の願すなわち第十八願は、 阿弥陀仏がわたしたちを浄土に往生させようとして与えてくださった正しい行業と正しい因であることが明らかです。 真実の信心を得た人は等正覚の弥勒菩薩と等しいので、 その人を如来と等しいともいって、 仏がたがおほめになっているのであるとお聞きしています。 また、 阿弥陀仏の本願を信じたからには、 「義のないことを根本の法義とする」 と、 法然上人は仰せになりました。 このように、 「義」 のある限りは、 他力ではなく自力なのであるとお聞きしています。 また、 他力というのは、 思いはかることができない仏の智慧のはたらきなのですから、 煩悩を身にそなえた凡夫がこの上ないさとりを得るというのは、 ただ仏がたのおはからいによることなのです。 決して行者が思いはからうことではありません。 それで、 「義のないことを根本の法義とする」 と仰せになったのです。 「義」 というのは、 自力の人のはからいをいうのです。 ですから、 他力ということについて、 「義のないことを根本の法義とする」 と仰せになっているのです。 これらの人々がいっている内容は、 わたしのまったく知らないことですので、 あれこれと申しあげることはできません。 また、 「来」 の字は、 すべてのものを救うというときには 「くる」 といい、 これは仏がわたしたちを導くための手だてのことです。 さとりを開いたときには 「かえる」 というのです。 ときに応じて、 「くる」 とも 「かえる」 ともいうのです。 ^何につきましても、 またの機会に申しあげましょう。
二月九日
親鸞
慶西房へのお返事

(20)
無礙光如来の慈悲の光明に摂め取られることにより、 名号を称え不退転の位に定まったからには、 わたしにとっては、 摂取不捨すなわち摂め取ってお捨てにならないというはたらきについて、 ことさらに尋ねる必要はないと思います。 さらに、 華厳経に、 「この教えを聞き、 信心を得てよろこび、 心に疑いのないものは、 すみやかにこの上ないさとりを得るであろう。 すべての仏がたと等しい身となるのである」 と説かれています。 また、 第十七願に、 「すべての世界の数限りない仏がたに、 ほめたたえられ、 称えられよう」 と誓われています。 この願が成就したことを示す文にも、 「すべての世界の数限りない仏がた」 などと説かれているのは、 信心を得た人のことであると心得ています。 つまりこの人はすでにこの世で如来と等しいのであると思われます。 この他に、 凡夫のはからいを用いることはありません。 このことについて、 詳しくお教えをいただきたいと思います。 謹んで申しあげます。
二月十二日
浄信

阿弥陀仏の誓願を信じる心が定まるときというのは、 摂め取ってお捨てにならないという利益を得るのですから、 不退転の位に定まるのであるとお心得ください。 真実の信心が定まるというのも、 金剛の信心が定まるというのも、 摂め取ってお捨てにならないというはたらきがあるからなのです。 だからこそ、 この上ないさとりに至ることができる心がおこるというのです。 これを不退転の位に定まるとも、 正定聚の位に入るともいい、 等正覚の位に至るともいうのです。 この心が定まることを、 すべての世界の仏がたはよろこんで、 仏がたのお心に等しいとおほめになるのです。 ですから、 真実の信心を得た人を、 仏がたと等しいというのです。 また、 一生補処の弥勒菩薩と同じであるともいうのです。 ^こ の世で真実の信心を得た人をお護りになるので、 ¬阿弥陀経¼ に 「すべての世界の数限りない仏がたがお護りになる」 と説かれているのです。 安楽浄土へ往生してからお護りになるということではありません。 娑婆世界にいる間にお護りになるということなのです。 真実の信心を得た人の心を、 すべての世界の数限りない仏がたはおほめになるので、 仏と等しいというのです。
また、 他力というのは、 「義のないことを根本の法義とする」 ということです。 「義」 というのは、 行者がそれぞれに思いはからうことをいうのです。 阿弥陀仏の誓願は不可思議なのですから、 それは仏がたのおはからいによることなのです。 凡夫が思いはからうことではありません。 一生補処の弥勒菩薩をはじめとして、 不可思議な仏の智慧を思いはからうことができる人はいないのです。 ですから、 阿弥陀仏の誓願においては、 「義のないことを根本の法義とする」 と、 法然上人は仰せになりました。 この他に浄土の往生のために必要なことはないと心得てきましたので、 人があれこれといっているのはどうでもよいことです。 謹んで申しあげます。
親鸞

(21)
安楽浄土に往生を遂げると、 ただちに大涅槃をさとるとも、 また無上覚をさとるとも、 滅度に至るともいうのは、 その言葉こそ異なっているようですが、 これらはみな法身という仏のさとりを開くことを表しています。 そのさとりを開く正しい因を本願にお誓いになり、 法蔵菩薩が阿弥陀仏となって、 わたしたちにお与えになることを、 往相の回向というのです。 この回向された本願を、 念仏往生の願というのです。 この念仏往生の願をひとすじに信じて二心のないことを、 一向専修というのです。 阿弥陀仏の往相の回向と還相の回向について、 この二種の回向を信じて二心のないことを、 真実の信心というのです。 この真実の信心は、 釈尊と阿弥陀仏の二尊のはたらきによっておこるのであるとお心得ください。 謹んで申しあげます。

(22)
いや・・女のことについて、 お手紙をいただきました。 いまだに決まった居場所もなくて、 生活にも困っているようです。 何とも情ないことですが、 わたしの力が及ばず、 どうすることもできずにいます。 謹んで申しあげます。
三月二十八日

覚信尼へ
親鸞

(23)
誓願と名号が同一であるということについて。
お手紙を詳しく読みました。 どうしてこのような疑問をお持ちになるのかわかりません。 なぜなら、 誓願といっても名号といっても異なったものではないからです。 誓願を離れた名号もありませんし、 名号を離れた誓願もありません。 このようにいうことさえもまた、 はからになのです。 ただ誓願を不可思議であると信じ、 また名号を不可思議であると疑いなく信じて念仏しているからには、 どうしてそこに自らのはからいをさしはさむことなどできるでしょうか。 誓願と名号とについて、 聞いて区別して考えるものであるなどと、 わずらわしいことをいっておられるのでしょう。 これらはみな誤った考えです。 ただ阿弥陀仏のはたらきが不可思議であると信じているからには、 あれこれと思いはからうことなどあってはなりません。 浄土往生のための行いには、 自らのはからいをさしはさむことなどあってはならないのです。 謹んで申しあげます。
ただ阿弥陀仏におまかせしなければなりません。 謹んで申しあげます。
五月五日
親鸞
教名房へ
余白に次のように記されている。
この手紙を他の人々にもお見せになってください。 他力においては自力のはからいがまじらないことを根本の法義とするというのです。

(24)
仏の智慧は不可思議であると信じなければならないということについて。
お手紙を詳しく読みました。 念仏の教えについてお尋ねになっている中で、 本願を信じる心がおこるとき、 その人は阿弥陀仏の何ものにもさまたげられることのない光明の中に摂め取られ護られるのですから、 平生に浄土往生の因が定まるといっておられるのは、 すばらしいことです。 ただ、 このように仰せになってはいますが、 すべてあなたのはからいになってしまっていると思います。 仏の智慧は思いはかることのできない不可思議なものでると信じたからには、 わずらわしく自らのはからいをさしはさむことなどあってはなりません。
またある人が、 さとりを求める思いは強いのに、 浄土往生の因は少ないといっているようですが、 認めることはできません。 さとりを求める心というのも、 浄土往生の因というのも、 同じことなのです。 これらはすべて余計なはからいであると思います。 仏の智慧は不可思議であると信じたなら、 特にわずらわしくあれこれと思いはからってはなりません。 人々があれこれというようなことに惑わされることなく、 ただ阿弥陀仏の誓願のはたらきにおまかせしなければなりません。 あれこれと思いはからうことがあってはならないのです。 謹んで申しあげます。
五月五日
親鸞
浄信房へ
余白に次のように記されている。
他力というのは、 あれこれと思いはからうことがないことをいうのです。

(25)
六月一日付のお手紙、 詳しく読みました。 ^鎌倉での訴訟について、 大体のところは聞いております。 このお手紙と同じ内容のことを聞いておりましたので、 とりわけ問題はないであろうと思っていたところ、 何ごともなく鎌倉からお帰りになったとのことで、 うれしく思います。
大体この訴訟は、 あなた一人のことではなく、 浄土往生を願うすべての念仏者のことなのです。 このようなことは、 今は亡き法然上人がご在世のころに、 このわたしなどもさまざまにいわれていたことです。 特に新しい訴訟でもありません。 あなた一人が対処しなければならないことではありません。 念仏する人は、 みな心を一つにして対処しなければならないことです。 あなた一人をあざけり笑ってすませるようなことではありません。 念仏者の中で道理をわきまえない人が、 あなたの罪であるかのようにいっているのは、 とんでもない間違いです。 念仏する人は、 みなあなたの味方にならなければなりません。 母や姉や妹までもがさまざまにいうのは、 昔からよくあることです。 けれども、 かつて念仏が禁止されたところ、 世間ではとんでもないことがおこりましたので、 そうした中にあっても念仏を深く信じて、 世間の人々の幸せを願い、 心を込めて念仏するのがよいと思います。
お手紙に書かれている陳述の内容は、 よくお考えになっており、 うれしく思います。 結局のところ、 あなたに限らず念仏する人々は、 自らのことはさておくとしても、 朝廷や国民のために互いに念仏するのなら、 それは結構なことでしょう。 浄土に往生できるかどうか不安な人は、 まず自らの浄土往生をお考えになって、 念仏するのがよいでしょう。 自らの往生は間違いないと思う人は、 仏のご恩を心に思い、 それに報いるために心を込めて念仏し、 世の中が安穏であるように、 仏法が広まるようにと思われるのがよいと思います。 よくお考えになってください。 この他に、 特に何か考えなければならないことがあるとは思いません。
それにしても、 何ごともなく鎌倉からお帰りになったのは、 本当にうれしいことです。 これらのことをよく心得て、 往生は間違いないという思いが定まったなら、 仏のご恩に報いようとして特に何か考えなければならないことはありません。 ただ心から念仏するのがよいと思います。 謹んで申しあげます。
七月九日
親鸞
性信房へ

(26)
お尋ねになった念仏の教えに関する疑問について。 念仏して往生すると信じる人が、 辺地といわれる方便の浄土に往生するなどと嫌われるようなことは、 まったく理解できません。 なぜなら、 阿弥陀仏の本願は、 名号を称える人を極楽浄土へ迎えようとお誓いになっているのですから、 そのことを深く信じて名号を称えるのが尊いことなのです。 信心があるといっても、 名号を称えないようなら、 それは意味のないことです。 また、 ひとすじに名号を称えても、 信心が浅いようなら往生することはできません。 ですから、 念仏して往生すると深く信じて、 しかも名号を称える人は、 間違いなく真実の浄土に往生するのです。 結局のところ、 名号を称えるといっても、 本願他力を信じないようなら辺地に生れることでしょう。 本願他力を深く信じる人が、 どうして辺地に往生するようなことになるでしょうか。 このことをよく心得て、 念仏しなければなりません。
わたしは今はもうすっかり年老いてしまい、 きっとあなたより先に往生するでしょうから、 浄土で必ずあなたをお待ちしております。 謹んで申しあげます。
七月十三日
親鸞
有阿弥陀仏へのお返事

(27)
まず、 さまざまな仏や菩薩を軽んじ、 神々をおとしめて粗末にするということについて、 このようなことはあるはずもありません。 これまで何度も生れ変り死に変りしてきた中で、 数限りない仏や菩薩のおかげを受けて、 さまざまな善を修めてきましたが、 自力では迷いの世界を離れることができずにいました。 ところが、 このように果てしない過去から迷い続けている間も、 仏や菩薩のお導きがあったので、 出会うことが難しい阿弥陀仏の本願に今あうことができたのです。 このことを心得ずに、 さまざまな仏や菩薩をいいかげんに扱うのは、 その深いご恩を知らないからに違いありません。 仏法を深く信じる人を、 天地におられるすべての神々は、 影がその姿に付き添うように離れることなくお護りになるのですから、 念仏を信じている人がこのような神々を粗末にしようと思うことなどあるはずもありません。 神々でさえも念仏者に粗末にされることはないのです。 まして、 さまざまな仏や菩薩をいいかげんに扱い、 おろそかにすることなどどうしてできるでしょうか。 仏がたをおろそかにするなら、 それは念仏を信じず、 阿弥陀仏の名号を称えない人であるからなのでしょう。 結局のところ、 嘘いつわりをいい、 間違ったことを何かと念仏者にいいつけて、 その土地の領家や地頭や名主が念仏をさまたげようとすることがあるのは、 十分にいわれがあるのです。 というのは、 すでに釈 尊のお言葉には、 念仏する人を謗るものを 「真実を見る目がない人」 とお説きになっており、 「真実を聞く耳がない人」 とも仰せになっているのであり、 善導大師の 法事讃には、 「さまざまな濁りに満ちた時代には、 仏法を疑い謗ることが多くなり、 出家のものも在家のものも争いあって教えを聞こうとすることなく、 修行している人を見ては怒りの心を起し、 手を尽して邪魔をしては互いに恨みを持つのである」 と確かに仰せになっているのです。 この世のならいとして今念仏をさまたげようとする人は、 その土地の領家や地頭や名主であり、 それはいわれがあってのことなのです。 あれこれというようなことではありません。 「念仏する人々は、 念仏をさまたげようとする人を哀れむ心を持ち、 気の毒に思って心から念仏を称え、 その人を助けなければなりません」 と、 法然上人は仰せになりました。 このことをよくお考えにならなければなりません。
^次 に、 念仏しておられる人々のことについて、 阿弥陀仏の本願は煩悩を身にそなえたもののために誓われたと信じておられるのは、 すばらしいことです。 ただし、 そのような悪いもののためであるからといって、 わざと思ってはならないことを思い、 してはならないことをし、 いってはならないことをいうのがよいなどということは、 浄土の教えにはありません。 ですから、 わたしがこのようなことを人々にいうことはありません。 そもそも、 煩悩をそなえた身であり、 悪い心を押しとどめることができないままでありながら、 間違いなく往生するのであると思いなさいと、 師や善知識もいっておられます。 けれども、 このような悪い身であるから、 わざと悪事を好み、 念仏する人々のさまたげとなり、 師や善知識の罪になるようなことをすればよいなどということは、 あるはずもありません。 出会うことが難しい阿弥陀仏の本願に出会い、 仏のご恩に報いようとこそ思わなければならないのに、 念仏がさまたげられるようなことをいうのは、 何とも理解できないことですし、 嘆かわしいことです。 誤って理解している人々がいるので、 あってはならないことが聞えてくるのです。 何ともいいようがありません。 ただし、 念仏する人の中に間違ったことをいうものがいたなら、 その人こそ地獄に堕ち、 あるいは魔王になることでしょう。 すべての念仏者の罪になるとは思いません。 よくお考えになってください。 なお、 念仏しておられる人々は、 十分にこの手紙をご覧になって、 他の人々にもお伝えください。 謹んで申しあげます。
九月二日
親鸞
念仏者のみなさんへ

(28)
お手紙をお送りします。 この手紙を他の人々にも読み聞かせてください。
遠江の尼御前がいろいろとお考えになって対応しておられるようで、 本当にありがたいことです。 どうぞ京都からお礼を申しあげているとお伝えください。
信願房がいっていることは、 何とも心の痛むことです。 煩悩をそなえた悪い身であるからといって、 わざと悪事を好んで、 師や善知識にとってよくないことをあれこれとし、 それが念仏する人々の罪になることがわからないのは、 仏のご恩を知らないのです。 よくお考えになってください。
また、 正気を失って死んだ人々のことを持ち出して、 信願房を善いとか悪いとかいってはなりません。 念仏する人の臨終も、 身の病によって命を終える人については、 往生できるかどうかなどといってはなりません。 仏法を謗るという心の病をわずらっている人は、 魔王になり、 あるいは地獄に堕ちることでしょう。 心の病と身の病とはまったく異なっているので、 仏法を謗るという心の病をわずらって命を終える人のことを、 よくお考えになってください。
信願房が、 凡夫であるからには悪いのが本来の姿であるといって、 思ってはならないことを好んで思い、 してはならないことをし、 いってはならないことをいうのがよいなどといっているとのことですが、 とても信願房の言葉とは思えません。 往生のさまたげにならないからといって、 悪事を犯してもよいなどと、 わたしがいったことはありません。 何とも理解できないことです。
結局のところ、 悪事を犯してもよいなどという人は、 その人こそどのようになってしまうかわかりませんが、 すべての念仏者のさまたげになるとは決して思いません。
また、 念仏をさまたげようとする人も、 その人こそどのようになってしまうかわかりませんが、 念仏者すべての罪になるとは思いません。 法事讃に、 「さまざまな濁りに満ちた時代には、 仏法を疑い謗ることが多くなり、 出家のものも在家のものも争いあって教えを聞こうとすることなく、 修行している人を見ては怒りの心を起し、 手を尽して邪魔をしては互いに恨みを持つのである」 と明らかに善導大師はお示しになっています。 釈尊は、 「真実を見る目がない人といい、 真実を聞く耳がない人という」 とお説きになっています。 このような人が、 念仏をさまたげ、 念仏者を憎んだりもするのでしょう。 このことについては、 念仏をさまたげようとする人を憎んだりせず、 互いに念仏して助けようとお思いになるのがよいと思います。 謹んで申しあげます。
九月二日
親鸞
慈信房へのお返事
入信房や真浄房や法信房にも、 この手紙を読み聞かせてください。 何とも心の痛むことです。 性信房には、 春に京都に来られた時、 十分にいいました。 くげ・・殿にも、 どうぞよろしくお礼を申しあげてください。 こ れらの人々が間違ったことをいいあっているからといって、 仏法の道理まで失ってはおられないと思います。 世間でも、 そのようなことがあるでしょう。 領家や地頭や名主が間違ったことをするからといって、 一般の人々を惑わすことはないでしょう。 仏法を滅ぼすことのできる人はいないのです。 仏法者自身が仏法を滅ぼすことをたとえて、 「獅子の体の中にいる虫が、 獅子をむしばむようなものである」 と説かれているのです。 このように、 念仏者の邪魔をしてさまたげるのは仏法者なのです。 十分にお心得ください。 これ以上はお手紙ではいい尽すことができません。

(29)
武蔵の国から、 しむ・・の 入道という人と正念房という人が、 大番役で京都に来られたとのことで、 わたしのところにお越しになり、 お会いしました。 お二人が念仏して浄土に往生しようと志しておられるのは、 本当にうれしく尊いことであると思います。 あなたのお勧めであるとお聞きしました。 何ともうれしくありがたいことです。 より一層お勧めになって、 信心が変ることのないように人々に仰せになってください。 念仏して往生することは、 阿弥陀仏が本願にお誓いになり、 釈尊もお説きになっています。 また、 すべての世界の数限りない仏がたが真実であると証明しておられます。 信心は変らないと思っていましたが、 人々の間でさまざまに変ってきていることは、 本当に嘆かわしく思います。 より一層お勧めになっていただきたいと思います。 謹んで申しあげます。
九月七日
親鸞
性信房へ
念仏をめぐる訴訟についてあなたがいろいろと対処なさっていると聞いていましたが、 今は落ち着いてお過しであると、 お二人が話してくださいました。 本当によろこばしくうれしいことです。 何につきましても十分に申しあげることはできません。 命がありましたら、 またの機会に申しあげましょう。

(30)
お尋ねになった摂取不捨ということについては、 善導大師の ¬般舟讃¼ という書物を拝見しますと、 「釈尊と阿弥陀仏は、 わたしたちを慈しみあわれむ父・母であり、 さまざまな手だてによって、 この上ない信心を開きおこしてくださるのである」 と示されており、 真実の信心が定まるのは、 釈尊と阿弥陀仏のはたらきによることが明らかです。 浄土に往生することについて疑いがなくなるのは、 阿弥陀仏に摂め取られるからであると示されているのです。 摂め取られたからには、 あれこれと行者が思いはからうことなどあるはずがありません。 浄土に往生するまでは不退転の位にあるので、 これを正定聚の位といわれているのです。 真実の信心は、 釈尊と阿弥陀仏の二尊のはたらきによっておこしてくださると示されていますので、 信心が定まるのは、 摂め取られた時であって、 その後は、 浄土に往生するまで正定聚の位にあるのです。 いずれにしても行者のはからいがほんの少しもないからこそ、 これを他力というのです。 謹んで申しあげます。
十月六日
親鸞
しのぶの御房へのお返事

(31)
人々がいっておられる十二光仏のことについて、 書き記してお送りします。 詳しく書くこともできませんが、 大体のところを記しました。
つきつめていえば、 無礙光仏と申しあげることを根本になさらなければなりません。 この仏は、 すべての人々のあさましく悪い心にさまたげられることなくお救いくださるので、 無礙光仏というのであるとお心得にならなければなりません。 謹んで申しあげます。
十月二十一日
親鸞
唯信房へのお返事

(32)
お尋ねになっていることは、 本当に尊いことです。 真実の信心を得た人は、 すでに仏となる身に定まっておられるので、 「如来と等しい人」 と 華厳経に説かれています。 弥勒菩薩はまだ仏になっておられませんが、 次の世で必ず仏になるのですから、 弥勒仏と申しあげるのです。 それと同じように、 真実の信心を得た人を、 如来と等しいと仰せになっているのです。 また承信房が弥勒菩薩と等しいといっていることは、 間違いではありませんが、 他力によって信心を得てよろこぶ心が如来と等しいということについて、 そのことを自力であるといっているのは、 承信房の理解が十分には深まっていないように思います。 よくお考えにならなければならないでしょう。 自力の心で、 わが身は如来と等しいというようなことは、 まったくの誤りです。 他力の信心によって、 あなたが如来と等しいとよろこんでおられることが、 どうして自力になるでしょうか。 よくお考えになってください。 このことは、 こちらに訪ねて来た人々に詳しく話しました。 承信房には、 この人々に尋ねるようにお勧めください。 謹んで申しあげます。
十二月二十一日
親鸞
浄信房へのお返事

(33)
九月二十七日付のお手紙、 詳しく読みました。 また、 お志の銭五貫文を十一月九日にいただきました。
さて、 そちらの人々が、 長年の間念仏していたのはすべて無意味であったなどと、 あちこちでさまざまにいっているようなことは、 何とも心の痛むことです。 さまざまな書物などを書き写して持っておられますのに、 どのように心得ているのでしょうか。 何とも気がかりなことです。
^あなたが関東へ行って、 「わたしが父の親鸞から聞いた教えこそが真実であって、 あなたがたが日頃から称えている念仏はすべて無意味である」 といったとのことで、 おおぶ・・・の 中太郎入道のもとにいた九十人あまりの人がみなあなたのもとへ行き、 中太郎入道を見限ってしまったと聞きました。 どうしてそのようなことになっているのですか。 結局のところ、 信心が定まっていなかったのだと思われます。 どのような事情で、 そのように多くの人々が動揺しているのでしょうか。 心の痛むことです。 また、 このようなことが聞えてくるぐらいですから、 根も葉もないうわさも多くあることでしょう。 この親鸞についても、 えこひいきする人だといううわさが聞こえてきます。 力を尽して 唯信鈔や 後世物語聞書や自力他力事の内容や、 二河の譬えなどを書いて、 各地の人々にお送りしましたが、 すべてみな無意味なものになってしまったと聞いています。 どのように教えを説いているのですか。 思いもよらないうわさが聞えてきますのは、 何とも心の痛むことです。 詳しく事情をお聞かせください。 謹んで申しあげます。
十一月九日
親鸞
慈信房へ

真仏房や性信房や入信房について、 あなたがいっていることはわかりました。 何とも嘆かわしいことですが、 どうすることもできません。 また他の人々の心が一つでないということについても、 どうすることもできません。 人々の心が一つではないのですから、 あれこれということはありません。 今は他の人のことをとやかくいってはなりません。 十分にお心得ください。
親鸞
慈信房へ

(34)
ある人が次のようにいっています。
本願を信じる心がおこったとき、 その人は阿弥陀仏の何ものにもさまたげられることのない光明の中に摂め取られ護られているのですから、 浄土往生の因はみな同じなのです。 ですから疑問に思うことはありませんし、 ことさらに信心を得ているのかいないのかを議論する必要はありません。 これが他力ということであり、 義のない中の義ということなのです。 わたしたちはただ無明の闇の中にあり、 煩悩に覆われたままなのです。
謹んで申しあげます。
十一月一日
専信

仰せになっている浄土往生の因については、 真実の信心を得るとき摂取不捨の利益にあずかるのですから、 その人は必ず阿弥陀仏の誓願のはたらきの中にあると第十一願に示されています。 すなわち、 「わたしが仏になるとき、 わたしの国のものが正定聚の位にあり、 必ずさとりに至ることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」 と誓われているのです。 信心を得た人は正定聚の位に定まっていると心得たからには、 そこには行者のはからいなどないのですから、 他力においては、 自力のはからいがまじらないこと、 すなわち義のないことを根本の法義とするというのです。 善とか悪とか、 心が清らかであるとかないとかいった、 行者のはからいがない身となっているからこそ、 義のないことを根本の法義とするというのです。
第十七願には、 「わたしの名号が称えられるようにしよう」 と誓われ、 第十八願には、 「真実の信心を得たものが、 浄土に生れないようなら決してさとりを開かない」 と誓われています。 第十七願・第十八願がみな真実であるなら、 正定聚の願すなわち第十一願は無意味なはずがあるでしょうか。 信心を得た人は一生補処の弥勒菩薩と同じ位になっておられるので、 摂取不捨の利益を得ると定められているのです。 ですから、 他力というのは行者のはからいが塵ほどもまじらないのです。 このようなわけで、 義のないことを根本の法義とするというのです。 この他に申しあげることはありません。 ただ阿弥陀仏におまかせしなさいと、 法然上人は仰せになりました。
十一月十八日
親鸞
専信房へのお返事

(35)
「お返事」
常陸の国のみなさんに、 この手紙をお見せになってください。 これはわたしの思いと少しも異なるものではありません。 これにまさるものはありませんから、 常陸の国の人々はみな同じように受けとめてくださるでしょう。 謹んで申しあげます。
十一月十一日
いまごぜんの母へ

(36)
このいま・・ごぜん・・・の母は頼りとする人もなく、 もしわたしが領地を持っていたなら譲りもしたでしょう。 わたしが死んだら、 常陸の国のみなさんは、 どうか気の毒に思ってあげてください。 この手紙をお送りする常陸の国のみなさんを頼りにしておりますので、 気にかけてくださいますようお伝えになってください。 この手紙をお見せになってください。 このそく・・しょう・・・房も、 生計を立てる手だてを持っていませんので、 い・ま・ごぜん・・・の母について何もいうことができません。 自分ではどうすることもできず、 心細く思っていることは二人とも同じなので、 そく・・しょ・・う・房に何もいってはおりません。 常陸の国のみなさんしか、 これらのものを気にかけてくださらないでしょう。 どうか気の毒に思って、 気にかけてあげてください。 この手紙をご覧になって、 みな同じようにご配慮ください。 謹んで申しあげます。
十一月十二日
善信
常陸の国のみなさんへ

常陸の国のみなさんへ

(37)
何よりも、 聖教の内容も知らず、 また浄土の教えの本当の意味も知らないで、 考えられないような勝手気ままな行いをして自らの心に恥じることのない人々に対して、 悪い行いは心にまかせてするのがよいなどといっておられるそうですが、 それは決してあってはなりません。 北の郡にいた善証房というものに、 わたしが最後まで親しく接することがなかったのを見ておられなかったのでしょうか。 凡夫であるからといって、 何でも心にまかせてしてもよいのなら、 物を盗んだり、 人を殺したりしてもよいのでしょうか。 かつて盗みをはたらこうとした人でも、 極楽浄土への往生を願って念仏するようにまでなったら、 もとの誤った考えをあらためもするはずですが、 そのようなすがたも見受けられない人々に、 悪は往生のさまたげにならないと説くことは、 決してあってはなりません。 煩悩に狂わされて、 気づかないうちにしてはならないことをし、 いってはならないことをいい、 思ってはならないことを思ってしまうのです。 往生のさまたげにはならないからといって、 人に対して悪意をもって、 してはならないことをし、 いってはならないことをいうのなら、 それは煩悩に狂わされているということではありません。 わざとしてはならないことをするのは、 決してあってはならないことです。
鹿島や行方の人々の悪い行いをやめるようにいい、 またその土地の人々の中のとりわけ誤った考えを正してこそ、 こちらで真実の教えを聞いたもののすがたといえるでしょう。 何 であっても心にまかせてするのがよいなどといったそうですが、 嘆かわしいことです。 この世の悪も捨て、 嘆かわしい行いもしないようにしてこそ、 この迷いの世界を厭い、 念仏するということなのです。 長年の間念仏している人が、 他の人に悪いことをしたり、 いったりするのなら、 それはこの迷いの世界を厭うすがたではありません。
ですから、 善導大師は ¬観経疏¼ に、 「悪を好むような人から、 気をつけて離れなければならない」 と、 「至誠心」 を解釈するなかでいわれています。 いつ誰が、 自らの悪い心にまかせて悪い行いをするのがよいなどといったでしょうか。 経典や祖師がたの書かれたものを少しも知らず、 如来のお言葉も知らない人々に対して、 悪は往生のさまたげにならないなどと決していってはなりません。 謹んで申しあげます。
十一月二十四日
親鸞

(38)
他力の中に自力ということがあるとは聞きましたが、 他力の中にまた他力ということがあるとは聞いたことがありません。 他力の中の自力ということについて、 さまざまな行を修めたり、 定心や散心の念仏を修めたりしようとする人々は、 他力の中の自力の人なのです。 他力の中にまた他力ということがあるとは聞いたことがありません。 何につきましても、 専信房がしばらくこちらに滞在するということですので、 その時に申しあげましょう。 謹んで申しあげます。
銭二十貫文を確かにいただきました。 謹んで申しあげます。
十一月二十五日
親鸞


(39)
お尋ねになっていることについて、 阿弥陀仏の他力回向の誓願に出会い、 真実の信心をいただいてよろこぶ心が定まるとき、 摂め取ってお捨てにならないというはたらきの中にあるのですから、 金剛の信心を得るときを正定聚の位に定まるともいうのです。 また弥勒菩薩と同じ位になるとも説かれているようです。 弥勒菩薩と同じ位になるのですから、 真実の信心を得た人を、 仏と等しいともいうのです。
また、 仏がたは真実の信心を得てよろこぶ人のことを心からよろこんで、 わたしと等しいものであるとお説きになっています。 無量寿経には、 「仏を仰いで信じて大いによろこぶものこそ、 わたしのまことの善き友である」 と釈尊は仰せになってよろこんでおられますから、 信心を得た人は仏がたと等しいと説かれているのでしょう。 また弥勒菩薩は、 すでに仏になることが定まっておられるので、 弥勒仏と申しあげるのです。 ですから、 すでに他力の信心を得ている人のことも、 仏と等しいということができるのでしょう。 疑ってはなりません。
そちらの念仏の仲間のうちで 「臨終の救いを期待して」 といっておられるのは、 わたしにはどうすることもできません。 真実の信心を得た人は、 誓願の利益にあずかっているのであり、 阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないのですから、 臨終の来迎を期待することはないと思います。 まだ信心が定まっていない人は、 臨終の救いを期待して来迎をお待ちになることでしょう。
このお手紙をくださったあなたが随信房と名乗られるのは、 すばらしいことです。 お手紙の内容はすばらしいものです。 そちらの念仏の仲間のうちでいわれていることは、 理解できません。 それはわたしにはどうすることもできません。 謹んで申しあげます。
十一月二十六日
親鸞
随信房へ

(40)
京都に来られていたえん・・仏 房がそちらにお帰りになります。 浄土の教えを求める思いが深いので、 仕えている主人などにも知らせずに、 こちらにお越しになったのです。 このことを配慮して、 主人などにもうまくとりなしてあげてください。 今月の十日の夜、 火事にあいました。 そのような中、 このえん・・仏房はよく訪ねて来てくれました。 教えを求める思いは本当に尊いものです。 きっとこちらのことはあなたにお話しになるでしょう。 よくお聞きになってください。 何につきましても忙しさのあまり、 詳しく申しあげることはできません。 謹んで申しあげます。
十二月十五日
真仏房へ

(41)
護念房を通じて、 あなたからのお志の銭二百文をいただきました。 またこれに先立って、 念仏のためのお志を、 各地のみなさんから確かにいただきました。 みなさんにわたしがお礼を申しあげているとお伝えください。 この手紙を通して、 よろしくお伝えください。
さて、 あなたがお尋ねになっていることは、 本当にすばらしい問いであると思います。 まず、 一回の念仏に浄土往生の因がすべてそなわっているというのは、 実にもっともなことです。 けれども、 一回の念仏を称えた後に、 それ以上称えてはならないということではありません。 そのことについては、 唯信鈔に詳しく示されています。 よくご覧になってください。 また、 一回称えた後の念仏は、 すべての世界の命あるもののためにするのがよいというのも、 もっともなことです。 すべての世界の命あるもののためであるからといって、 二回三回と念仏することは自らの浄土往生のためによくないとお思いになるのなら、 それは間違いです。 「念仏往生の本願」 と仰せになっているのですから、 数多く称えても、 一回称えても、 往生することができるとお聞きしています。 一回の念仏だけで必ず往生できるからといって、 数多く念仏するものは往生できないなどということは、 決してあってはなりません。 唯信鈔をよくご覧になってください。
また、 有念や無念ということは、 他力の教えにはありません。 聖道門でいわれていることです。 それらはすべて聖道門の自力の教えなのです。 阿弥陀仏の選択本願に誓われた念仏は、 有念でもなく、 無念でもないというのです。 どのような人がいったとしても、 有念や無念ということを決して用いてはなりません。 聖道門の教えでいうことを誤って聞いて、 浄土の教えとしていっているのでしょう。 何があっても用いてはなりません。 また、 慶喜ということは、 他力の信心を得て、 間違いなく浄土に往生するであろうとよろこぶ心をいうのです。 常陸の国の念仏者の中で、 念仏について有念であるとか無念であるとか議論しているとお聞きしましたが、 以前にそれは間違いであると申しあげました。 結局のところ、 他力というのは、 行者のはからいではないから、 有念でもなく無念でもないというのです。 それを誤って聞いて、 有念であるとか無念であるとかいっているのだと思います。 阿弥陀仏の選択本願は、 行者のはからいがまじらないからこそ、 他力というのです。 念仏は一回称えるだけでよいとか、 数多く称えるのがよいとかいうことも、 決してあってはなりません。 なお、 一回の念仏を称えた後はすべての世界の命あるもののために念仏するといっていることについては、 釈尊や阿弥陀仏のご恩に報いようとしてするのなら、 それはもっともなことですが、 二回三回と念仏を称えて往生しようとする人のことを、 間違っているなどといってはなりません。 唯信鈔をよくご覧になってください。 阿弥陀仏の本願には念仏往生が誓われているのですから、 一回の念仏であっても十回の念仏であっても、 往生は間違いないとお思いにならなければなりません。 謹んで申しあげます。
十二月二十六日
親鸞
教忍房へのお返事

(42)
宝号経には、 「阿弥陀仏の本願に誓われた念仏は、 行でもなく、 善でもない。 ただ名号を称えるのである」 と説かれています。 名号そのものが善であり、 行なのです。 行は、 善を修めることをいう言葉です。 本願はもとよりすべてのものを必ず救うという阿弥陀仏の誓いであると心得たからには、 それは行者の修める善でもなく、 行でもないのです。 ですから他力というのです。 本願の名号は浄土往生の因であり、 それは父にたとえられます。 大いなる慈悲の光明は浄土往生の縁であり、 それは母にたとえられます。

(43)
鎌倉からお帰りになった後、 どのようにお過しでしょうか。 この源藤四郎殿に思いがけずお会いしました。 あなたに届けてくださるとのことで、 うれしさに手紙を差しあげます。 その後、 お変りはありませんか。
念仏をめぐる訴訟が落ち着いたと各地の人々からお聞きしていますので、 うれしく思います。 これからはいよいよ念仏の教えも広まるであろうと、 心からよろこんでいます。
こ のことからしても、 あなたは間違いなく教えを受けとめておられるのです。 心を込めて常に念仏を称え、 念仏を謗る人々のこの世から後の世までの幸せを願っていただきたいと思います。 間違いなく教えを受けとめておられるからには、 念仏は何のために称えるのでしょうか。 ただ誤った考えにとらわれた世間の人々の幸せを願い、 阿弥陀仏の本願に導こうとお思いになるのなら、 それは仏のご恩に報いることになると思われます。 よく心を込めて互いに念仏するのがよいでしょう。 法然上人の二十五日の念仏も、 結局のところ、 このような誤った考えにとらわれたものを救うためにこそ念仏するようにということですから、 念仏を謗る人が救われるようにとお思いになって、 互いに念仏していただきたいと思います。
これらのことはすべて、 何度も手紙で申しあげました。 源藤四郎殿があなたに届けてくださるとのことで、 うれしさに手紙を差しあげます。 謹んで申しあげます。
入西房にも差しあげたいのですが、 同じことですので、 この手紙の内容をお伝えください。 謹んで申しあげます。
親鸞
性信房へ